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【艦船シリーズ】4 コノ艦ハ非常ニ危険ナリ―イ201潜

 第二次世界大戦終結後、戦勝国アメリカは帝国海軍の全残存潜水艦を捕獲し、再生二次利用に回すことなくすべて海没もしくはスクラップとして処分した。
これは潜水艦が純然たる戦闘艦で、一切無駄のない構造であるがため、たとえ非武装化して当時大量に必要とされた復員輸送艦として使うことは現実的に不可能であることと、戦勝国の賠償艦にするには米国は自国以外に是が非でも引き渡したくなかったため(日本の潜水艦は非常に高度な優秀艦であるため、ことソ連には渡したくない。既に “反共戦争” は水面下で始まっていた)と推測される。

米海軍当局はその捕獲潜水艦群のなかで、すぐに処分せず調査目的により接収後本国へ回航させた残存艦六隻 1) があり、それは「潜水空母」と「輸送潜水艦」それに「高速潜水艦」の三タイプで、当時米海軍には存在しない特殊潜水艦だった。
空母型と輸送型は、いわゆるキワモノ艦(高性能艦であることに変わりはないが…)として実用性に疑問の余地はあるものの(その “特異性” から調査対象となったともいえる)、高速型に関しては、米潜ガトー級やバラオ級(改ガトー級)を含めた他の潜水艦を凌駕する性能を秘めた次世代攻撃型潜水艦として米海軍は注目していた。

その高速型とは、伊号第二〇一型潜水艦である。

イ201型は、外観こそ突起の少ないシンプルなもので、資源不足から造られた粗造船に見えない訳ではないが、調べていくうちその秘めたる能力に米海軍接収官は驚愕したという。

全溶接船体構造で建造され、フォルムもそれまでの潜水艦の常識だった “船型” ではないなど、他の帝国海軍潜水艦ラインナップと一線を画する別次元のものであり、推進可能な完成艦のうちイ201潜とイ203潜を重要参考艦として米国に持ち帰り徹底的に構造解析を行った。
その結論は、

「コノ艦ハ非常ニ危険ナリ」 …

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イ201型は、当初ドイツから寄贈された独潜XIC型の帝国海軍版として伊号第二〇〇潜水艦プロジェクトとしてスタートした(正確には異なる) 2) 。
しかしながら高度なハイテク艦XIC型の生産は当時の日本の技術では不可能に近く、また高速艦を期待している海軍側としてはカタログスペック水中最高速度7.3ノットではとても速いとは言えず(遅くもないが)計画は白紙となった。その代わり戦前に帝国海軍が実験を重ねていた高速実験潜水艦(通称:第71号艦) 3) とXIC型の技術要素を加味した全く新しいコンセプトの高速機動艦計画が再スタートした。

では、この「高速機動艦」とはどういったものだったのか。
昭和18(1943)年7月、帝国海軍軍令部潜水艦主任参謀である藤森康男中佐(パナマ運河攻撃作戦の立案者として有名)は、日米開戦から一年半が経過した今次大戦における「潜水艦用兵、戦備修正」の意見書を上層部に具申した 4) 。
内容は、「潜水空母の建造再開」(イ400潜。建造計画は進んでいたが、戦況から中止となっていた)、「高速潜水艦の建造」、「輸送潜水艦の建造」の三点だった。
18年2月以降、中部太平洋海域で劣勢を強いられた日本軍の前に立ち塞がった米軍は、物量作戦とともに戦場の前面に押し出してきた “最新兵器” がレーダーである。
レーダー出現後は、日本軍のお家芸とも言うべく夜戦、奇襲がし難くなり、それは潜水艦も同様である。
第二次世界大戦初期までの帝国海軍潜水艦はすべて戦闘用の対艦隊斬激用で、夜間隠密裡に敵艦前面に出て直ちに雷撃を喰らわせるといった忍者戦法を得意としていたが、実行する前に敵艦に捕捉され逆に爆雷雨を浴びてしまうなど “隠れることの出来ない潜水艦” となってしまい保有艦数が著しく減殺していった。
そこで藤森参謀は、「では20ノット前後出せる捕捉されない高速潜を建造したらどうか」という提案を出し、同調した奇将黒島亀人少将(軍令部第二部部長)の肝煎で空母潜、輸送潜とともに実現される方向となった。
「高速潜」の計画値は以下のようなもので、

  • 基準排水量:1千トン
  • 水中最高速度:20ノット(水上16ノット) ※初期の目標は水中25ノット
  • 30艦建造 ※後に23艦

という具合で、水中20ノットという前例にない超高速潜水艦で、海上自衛隊の新鋭艦 “そうりゅう型” (16SS)でも水中速力20ノットがスペック値である。
高速潜計画はその後「戦備考査部会議」を経て資材確保なども行われたものの、戦況の悪化で30(23)艦建造は不可能となり、大幅減に修正されてしまい三隻の建造が改マル五計画に盛り込また(というか同計画修正のマル戦計画)。
設計建造は、戦前の高速実験潜水艦と特殊潜航艇「甲標的」、それに独潜から得ていた溶接技術(U511に乗艦し来日したシュミット博士の技術指導による功績が大きい)と潜水艦建造の大量生産化技術(ブロック工法)を組む込み、さらに友永英夫造船中佐開発の「潜水艦用自動懸吊装置」、「重油漏洩防止装置」と当時最新鋭のシュノーケル装置(潜航中の機関息継ぎを可能とした長時間潜航装置)やレーダー(電探)も装備した帝国海軍における潜水艦建造の集大成として進められた。
そしてついに昭和20年初頭から、伊号第二〇一、二〇二、二〇三が順次完成した。
完成後の基本スペックは、以下の通りである。

  • 基準排水量:1,070トン(水上) 1,450トン(水中)
  • 全長/全幅/吃水:79m/5.8m/5.46m
  • 水中最高速度19ノット(水上15.8ノット)
  • 航続距離:14ノットで5,800浬(水上) 3ノットで135浬(水中)
  • 兵装:53cm魚雷発射管×4門(艦首)魚雷10本、25mm単装機銃×2挺
  • 特別装備:シュノーケル装置、22号電探(対水上警戒レーダー)
  • 8艦建造(うち5艦未成)

船体構造は、盟邦国ドイツからもたらされたst-52高張力鋼による全溶接技術(満鉄「あじあ号」でも使われた)を用い水流を考慮した流線型となり、推進用高出力を得るため約2千個もの二次電池を搭載 5) しました(そのことで居住性は劣悪だった)。また、伝統だった艦載砲は省略され25mm機銃のみとなり、船外の突起物は極力簡素化され、一部は可動式で高速航行時にたたみ込まれ水中抵抗を抑えた(言うまでもないが水上機や潜航艇搭載なども全く考慮されていない)。
しかしながら近代戦装備としてのシュノーケル装置や電探を外装したことで水中速度は計画値20ノットを出せず、19ノットに低下してしまった。
ただしイ201潜は、その19ノットとて当時世界で最高速力であり 6) 、その画期的な高速航行(米潜ガトー級で水中最高速度8.75ノット)を活かすことで日本本土に接近する敵機動部隊に対し、レーダー網をくぐり抜け標的撃沈確実距離から酸素魚雷を発射し、安全海域まで高速離脱できるという恐るべき龍神であった。
そしてブロック工法による量産化で月一艦を建造目標とし、完成艦が実戦投入される直前で終戦となり全艦米軍に差し押さえられ、うちイ201潜、イ203潜の二艦が米本土に回航(イ202潜は日向後岬沖で海没処分)後、徹底的に調査をされハワイ沖で海没処分された。

時代が下って、海上自衛隊が潜水艦部隊を持ち、米海軍供与艦から自国建造をするに至り、その国産一番艦「おやしお」(SS-511)建造のノウハウにイ201型は大いに貢献した。
この事情は、大戦中のジェット特殊攻撃機「橘花」の技術が航空自衛隊初の国産ジェット機「T-1」に活かされたことと似ている。

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1) 調査目的で米国に回航された潜水艦六隻:空母型がイ400潜、イ401潜、イ14潜。輸送型がイ369潜。高速型がイ201潜、イ203潜。
2) 昭和18年8月6日に遣日作戦で日本に回航されたU511(ロ500潜)を参考に同艦を量産化しようとした計画が伊号第二〇〇型潜水艦計画だが、大型化(そもそも計画型番が伊号となっている)や主機関の相違などU511とはかなり異なる艦となったはずである。また、高速潜水艦計画はU511回航以前(18年7月)に藤森参謀が提出し、伊号第二〇〇系とは明らかに別の潜水艦建造計画であり伊号第二〇一型潜水艦計画は、二〇〇系を計画放棄し同計画に盛り込まれる予定だった独潜の技術(溶接や潜水艦のブロック工法)を加味し再計画したもので単なるマイナーチェンジ計画ではない。
3) 第71号艦:戦前の高速潜水艦試作計画(昭和13(1938)年~)で用いられた俗称で正式名称ではない。基準排水量195トン、全長42.8mの小型艦で、特殊潜航艇甲標的(とその試作型)のデータが基となっていてある意味甲標的のスケールアップ版ともいえる。1200馬力(600馬力並列二基)ダイムラーベンツ製エンジンを 搭載し水中速力25ノットを目指したが、エンジン調達に失敗し既存の300馬力国産エンジン(一基)を搭載し、そのことで完成後の水中速力は計画値より4ノットほど落ちた。ただいくら高速艦であっても搭載火器、攻撃・防御能力さらにはシステム運用や使用目的などをトータルで考慮しなくてはならず、水中速度の優位性以外にメリットが少ないと判断されたためか昭和16(1941)年に破棄解体された。
4) 乙型、丙型、海大型、中型・・etc、潜水艦の艦種系統の多さはまさに “潜水艦の博覧会” だった。つまり藤森参謀は攻撃型の艦種を絞ることで潜水艦の量産性と機材統一を図ろうとした(余談だが系統の多さはかつての日電製パソコンPC98シリーズに似ていると思う)
5) 搭載二次電池は、特殊潜航艇甲標的と同じ「特D型蓄電池」で伊201潜は2088個搭載(異説4千余個)とされる。小型突撃艇用に開発されたこの電池は、瞬発力を得るために大容量高出力を実現したが、作戦行動時間の長い大型艦に搭載する目的ではなかったため船体サイズからいってもイ201潜向きではなかった。そのため通常の帝国海軍潜水艦に搭載されている「一号電池」(一〇型とか一五型などリビジョンがある)と呼ばれる蓄電池であれば多くとも数百個ですむところを小型とはいえ数千個も積まねばならず、当然ながら装置の個体差が多く生じやすくトラブルも多かった。さらに製品そのものの信頼度が低く充電むらやショートを起こしやすい扱いづらい電池であった。なお伊202潜に至っては火災事故を起こしている。そのため伊207潜からは通常蓄電池の搭載へ設計変更をしたという
6) 同じ時期、水中最高速力17.5ノット出せた独潜XXI型などドイツも高速艦の開発を進めていた。そして日本は同盟国として得ていたその高速独潜の技術情報を渡欧中だった友永英夫造船中佐が持参帰国(途上、独潜内で自決)し高速艦のさらなる性能向上に役立てようとした。

引用参考文献:
(1)『深海の使者』吉村 昭 文春文庫、1990年7月5日第11刷発行
(2)『幻の潜水空母』佐藤 次男 光人社、2001年7月15日発行
(3)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行

  • 本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
  • 帝国海軍潜水艦の名称について、呂号第五〇一潜水艦、伊号第五八潜水艦といった呼称もしくは表記が正式な用い方ですが、本記事中では当時からの俗称、略称であったロ501潜、イ58潜といった表記も併せて行っています。