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【艦船シリーズ】5 帝国海軍潜水艦伊一七潜、米本土ヲ砲撃ス

 米国ハワイ現地時間1941年12月7日、同地真珠湾を拠点とする米海軍太平洋艦隊艦艇と軍事施設が日本軍航空機により突如攻撃を受けた。
ハワイは日本から3000マイル以上も離れており、極秘裡に米軍哨戒ラインを突破し、同軍勢力圏内の北太平洋海域まで進出してきた機動部隊による航空奇襲攻撃は、もはや米本土も安全とは言えないことを意味し、結果始まった日米戦争は、米国市民、特に西海岸沿岸に住む人々は「直ぐにでも日本軍が攻めてくるのでは?」という恐怖を感じたに違いない(実際には規模の大きい水上艦隊の場合、補給限界能力を超えるため不可能に近い)。
それまでのアメリカ合衆国は、1776年の独立宣言に続いて起きた米英戦争(1812~14年)で交戦国イギリス・カナダ軍から本土を攻撃(この時は首都ワシントンまでも陥落)された以外、南北戦争の内戦と対メキシコ戦争を除き国土を敵対国家から蹂躙されたことはなく、先年の第一次世界大戦参戦(1917~18年)も、遠く欧州大陸での戦いであって、恐らく米国民の大多数は中央同盟軍が大西洋を渡って上陸してくるとは夢にも思ってなかったであろう。
しかしその楽観論が第二次世界大戦が起るに至り、脆くも崩れ去り、現実に北米大陸西岸は日本軍から数度の攻撃を受けた。

ジェット気流を利用した風船爆弾など “奇想天外兵器” 1) によるものもあったが、大戦初期には帝国海軍潜水艦が北米西岸に対して攻撃を行っている。
そのうち一つの作戦に参加した艦が伊号第一七潜水艦である。

イ17潜は、巡潜乙型と呼ばれるクラスの伊号第一五型潜水艦の一艦で、昭和16(1941)年1月に横須賀海軍工廠で竣工した。
巡潜乙型は、戦前から建造が開始され大戦中期まで20艦建造された。
基準排水量2千198トン、全長108.7m、全幅9.3mという大型艦で、航続距離が14,000浬(約26,000キロ 水上で16ノット時)という長大さを誇り、太平洋のみならず遙かインド洋アフリカ大陸東岸まで長征していた。
また、艦内には水上偵察機(零式小型水偵)1機を格納でき、前方射出機(空気式カタパルト)から発艦できた。
兵装は、後部艦載砲40口径14cm単装砲×1門、25mm機銃連装1基×2挺、艦首53cm魚雷発射管×6門(九五式魚雷17本)で、大戦末期いくつかの艦は回天攻撃艦に改装され、後部艦載砲やカタパルト、格納筒を取り外し4~6基の回天が装備された。
なお、帝国海軍の潜水艦中もっとも活躍し戦果を上げたのも巡潜乙型である。

昭和16(1941)年11月21日(日本時間以下同)、イ17潜はハワイ作戦に参加すべく第一潜水戦隊所属艦(他僚艦イ25潜、イ9潜、イ15潜)として横須賀を極秘裡に出撃し、12月8日の日米開戦時、カイウイ海峡北方海域(第一潜水戦隊は後備部隊、オアフ島北方沖海域に展開)にて迎えた。
真珠湾攻撃後の12月11日、第二潜水戦隊所属艦イ6潜が、「重巡二隻、レキシントン型空母北東に向かう」を打電し、第六艦隊司令部は直ちに第一潜水戦隊4艦と第一航空艦隊随伴3艦(イ19潜、イ21潜、イ23潜)の計7艦にこれを追わせ、本土ハワイの中間海域にいた要地偵察隊のイ26潜、イ10潜が待ち伏せを行いつつ北米大陸近海まで追撃したものの発見にはいたらなかった。
そのため司令部は、これら追撃9艦を米本土近海における通商破壊作戦に切り替え、北はシアトルから南はロサンジェルスまで効率的に配置させ、結果16年末まで合計約10隻の連合国商船を撃沈せしめた。

12月14日、好餌を求めサンフランシスコ沖を南下していたイ17潜は「12月25日に米本土を砲撃せよ」という暗号電報を受け取り艦内は活気づいた。
その後、商船狩りを行いながら(戦果として商船1雷撃撃沈、油槽船1砲撃撃沈)北米大陸に近接しつつ作戦航海を続けたものの、攻撃二日前に延期命令が出され(一説にクリスマス砲撃による敵戦意高揚を恐れた)、哨戒を続けながら17年1月11日南洋諸島クェゼリン環礁の帝国海軍基地に帰投した。
2月1日クェゼリン環礁を米海軍の艦載機が来襲し、イ17潜は対空戦闘態勢を取りながら環礁を最大戦速(24ノット)で抜けだし、機動部隊の追撃に入った。
そのままハワイ方面へ索敵進撃したものの機動部隊を捕捉することは出来ず、“次の作戦命令” の電文を受けイ17潜は東に向かった。
その “次の作戦命令” こそ米本土砲撃作戦であり、艦は2月21日には北米西岸ロサンジェルス近海まで進出した。

攻撃目標は、ロサンジェルス北方、サンタバーバラのエルウッド石油製油所。
2月24日に潜航しながらサンタバーバラ海峡北側から内海に滑り込み、サンタモニカ沖で反転し日没直後の22時40分エルウッド石油製油所沖3000mで急速浮上、予め決めておいた攻撃目標(石油タンク)に対し14cm単装砲から17発の砲弾を急射した。
さすがの米軍も狼狽したようで、空襲警報を鳴らし自動車のヘッドライトが右往左往する様子が艦上から判ったという。
そしてイ17潜は、敵駆逐艦と逢いながらもこれを巧みにかわし、三戦速(約20ノット)で悠々と湾外へ脱出した。

帝国海軍は北米西岸に対し、イ17潜が行った砲撃以外にも、

  • 昭和17年6月20日 イ26潜がカナダバンクーバー島エステバン岬灯台と無線羅針局を砲撃
  • 同年6月21日 イ25潜がアストリアのスティーブンス海軍基地を砲撃(本土の基地が攻撃されたのはこれ以後米国では皆無)
  • 同年9月9日と9月29日 アストリア砲撃と同じイ25潜が、今度は艦載機で本土を空襲(帝都初空襲の報復攻撃)

と数次の攻撃作戦を挙行した。

これら一連の米本土攻撃は、米政府や市民に与えた精神的打撃は大きく、イ17戦の砲撃に先立つ二日前にロサンゼルスで起きた “日本軍機来襲騒ぎ”(一種のデマ騒ぎ事件だが、米軍は対空砲まで撃ち込んだ。真相は不明)と相まって大戦初期の西海岸に住む人々は日本軍上陸に恐怖を感じていた。 2) しかし昭和18年以降は、戦域が中部太平洋に集中し、潜水艦部隊を遙か北米まで遠征させる余裕もなくなり米本土攻撃は行われなかった。
イ17潜はその後、通商破壊戦などを行いながら太平洋各地を転戦し、昭和18(1943)年8月19日、ニューカレドニアヌーメア湾にて敵基地をから飛び立った航空機による爆撃を受け搭乗員97柱とともに海中に没した。
なお20艦建造された巡潜乙型のうち、終戦まで生き残ったのは17番艦イ36潜のみでイ17潜とともに米本土を攻撃したイ25潜とイ26潜も含めた他19艦は事故もしくは戦役で海に沈んだ。

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1) 昭和19年10月頃より実施された「ふ号作戦」と呼ばれるもので、対ソ戦用に研究されていた気球兵器を基礎に計画を具体化させ米国へ攻撃敢行した。日本では一万メートル上空を吹く強偏西風(ジェット気流)の存在が早くから知られており、その気流に焼夷爆弾を懸吊させた気球を北米大陸に向け放球した。最終的に約1万球飛ばしたが「戦果なし」と判断され昭和20年3月に中止された。なお自然推進力を使い、気圧計とバラストによる高度保持装置まで備えた「ふ号」は無誘導兵器ながら多数が米本土にまで達し、必ずしも奇想天外兵器とも言えない。
2) 「日系人の強制収容」という負の要素も米国に与えてしまったとも言える。

引用参考文献:
(1)『伊17潜奮戦記』原 源次 朝日ソノラマ、昭和63年3月15日発行
(2)『伊58潜帰投せり』橋本 以行 朝日ソノラマ、昭和62年1月16日発行
(3)『幻の秘密兵器』木俣 滋郎 光人社、1998年8月15日発行
(4)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行
(5)『別冊歴史読本第36(333)号 太平洋戦争戦闘地図』新人物往来社、1996年2月19日発行

  • 本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
  • 帝国海軍潜水艦の名称について、呂号第五〇一潜水艦、伊号第五八潜水艦といった呼称もしくは表記が正式な用い方ですが、本記事中では当時からの俗称、略称であったロ501潜、イ58潜といった表記も併せて行っています。

【艦船シリーズ】4 コノ艦ハ非常ニ危険ナリ―イ201潜

 第二次世界大戦終結後、戦勝国アメリカは帝国海軍の全残存潜水艦を捕獲し、再生二次利用に回すことなくすべて海没もしくはスクラップとして処分した。
これは潜水艦が純然たる戦闘艦で、一切無駄のない構造であるがため、たとえ非武装化して当時大量に必要とされた復員輸送艦として使うことは現実的に不可能であることと、戦勝国の賠償艦にするには米国は自国以外に是が非でも引き渡したくなかったため(日本の潜水艦は非常に高度な優秀艦であるため、ことソ連には渡したくない。既に “反共戦争” は水面下で始まっていた)と推測される。

米海軍当局はその捕獲潜水艦群のなかで、すぐに処分せず調査目的により接収後本国へ回航させた残存艦六隻 1) があり、それは「潜水空母」と「輸送潜水艦」それに「高速潜水艦」の三タイプで、当時米海軍には存在しない特殊潜水艦だった。
空母型と輸送型は、いわゆるキワモノ艦(高性能艦であることに変わりはないが…)として実用性に疑問の余地はあるものの(その “特異性” から調査対象となったともいえる)、高速型に関しては、米潜ガトー級やバラオ級(改ガトー級)を含めた他の潜水艦を凌駕する性能を秘めた次世代攻撃型潜水艦として米海軍は注目していた。

その高速型とは、伊号第二〇一型潜水艦である。

イ201型は、外観こそ突起の少ないシンプルなもので、資源不足から造られた粗造船に見えない訳ではないが、調べていくうちその秘めたる能力に米海軍接収官は驚愕したという。

全溶接船体構造で建造され、フォルムもそれまでの潜水艦の常識だった “船型” ではないなど、他の帝国海軍潜水艦ラインナップと一線を画する別次元のものであり、推進可能な完成艦のうちイ201潜とイ203潜を重要参考艦として米国に持ち帰り徹底的に構造解析を行った。
その結論は、

「コノ艦ハ非常ニ危険ナリ」 …

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イ201型は、当初ドイツから寄贈された独潜XIC型の帝国海軍版として伊号第二〇〇潜水艦プロジェクトとしてスタートした(正確には異なる) 2) 。
しかしながら高度なハイテク艦XIC型の生産は当時の日本の技術では不可能に近く、また高速艦を期待している海軍側としてはカタログスペック水中最高速度7.3ノットではとても速いとは言えず(遅くもないが)計画は白紙となった。その代わり戦前に帝国海軍が実験を重ねていた高速実験潜水艦(通称:第71号艦) 3) とXIC型の技術要素を加味した全く新しいコンセプトの高速機動艦計画が再スタートした。

では、この「高速機動艦」とはどういったものだったのか。
昭和18(1943)年7月、帝国海軍軍令部潜水艦主任参謀である藤森康男中佐(パナマ運河攻撃作戦の立案者として有名)は、日米開戦から一年半が経過した今次大戦における「潜水艦用兵、戦備修正」の意見書を上層部に具申した 4) 。
内容は、「潜水空母の建造再開」(イ400潜。建造計画は進んでいたが、戦況から中止となっていた)、「高速潜水艦の建造」、「輸送潜水艦の建造」の三点だった。
18年2月以降、中部太平洋海域で劣勢を強いられた日本軍の前に立ち塞がった米軍は、物量作戦とともに戦場の前面に押し出してきた “最新兵器” がレーダーである。
レーダー出現後は、日本軍のお家芸とも言うべく夜戦、奇襲がし難くなり、それは潜水艦も同様である。
第二次世界大戦初期までの帝国海軍潜水艦はすべて戦闘用の対艦隊斬激用で、夜間隠密裡に敵艦前面に出て直ちに雷撃を喰らわせるといった忍者戦法を得意としていたが、実行する前に敵艦に捕捉され逆に爆雷雨を浴びてしまうなど “隠れることの出来ない潜水艦” となってしまい保有艦数が著しく減殺していった。
そこで藤森参謀は、「では20ノット前後出せる捕捉されない高速潜を建造したらどうか」という提案を出し、同調した奇将黒島亀人少将(軍令部第二部部長)の肝煎で空母潜、輸送潜とともに実現される方向となった。
「高速潜」の計画値は以下のようなもので、

  • 基準排水量:1千トン
  • 水中最高速度:20ノット(水上16ノット) ※初期の目標は水中25ノット
  • 30艦建造 ※後に23艦

という具合で、水中20ノットという前例にない超高速潜水艦で、海上自衛隊の新鋭艦 “そうりゅう型” (16SS)でも水中速力20ノットがスペック値である。
高速潜計画はその後「戦備考査部会議」を経て資材確保なども行われたものの、戦況の悪化で30(23)艦建造は不可能となり、大幅減に修正されてしまい三隻の建造が改マル五計画に盛り込また(というか同計画修正のマル戦計画)。
設計建造は、戦前の高速実験潜水艦と特殊潜航艇「甲標的」、それに独潜から得ていた溶接技術(U511に乗艦し来日したシュミット博士の技術指導による功績が大きい)と潜水艦建造の大量生産化技術(ブロック工法)を組む込み、さらに友永英夫造船中佐開発の「潜水艦用自動懸吊装置」、「重油漏洩防止装置」と当時最新鋭のシュノーケル装置(潜航中の機関息継ぎを可能とした長時間潜航装置)やレーダー(電探)も装備した帝国海軍における潜水艦建造の集大成として進められた。
そしてついに昭和20年初頭から、伊号第二〇一、二〇二、二〇三が順次完成した。
完成後の基本スペックは、以下の通りである。

  • 基準排水量:1,070トン(水上) 1,450トン(水中)
  • 全長/全幅/吃水:79m/5.8m/5.46m
  • 水中最高速度19ノット(水上15.8ノット)
  • 航続距離:14ノットで5,800浬(水上) 3ノットで135浬(水中)
  • 兵装:53cm魚雷発射管×4門(艦首)魚雷10本、25mm単装機銃×2挺
  • 特別装備:シュノーケル装置、22号電探(対水上警戒レーダー)
  • 8艦建造(うち5艦未成)

船体構造は、盟邦国ドイツからもたらされたst-52高張力鋼による全溶接技術(満鉄「あじあ号」でも使われた)を用い水流を考慮した流線型となり、推進用高出力を得るため約2千個もの二次電池を搭載 5) しました(そのことで居住性は劣悪だった)。また、伝統だった艦載砲は省略され25mm機銃のみとなり、船外の突起物は極力簡素化され、一部は可動式で高速航行時にたたみ込まれ水中抵抗を抑えた(言うまでもないが水上機や潜航艇搭載なども全く考慮されていない)。
しかしながら近代戦装備としてのシュノーケル装置や電探を外装したことで水中速度は計画値20ノットを出せず、19ノットに低下してしまった。
ただしイ201潜は、その19ノットとて当時世界で最高速力であり 6) 、その画期的な高速航行(米潜ガトー級で水中最高速度8.75ノット)を活かすことで日本本土に接近する敵機動部隊に対し、レーダー網をくぐり抜け標的撃沈確実距離から酸素魚雷を発射し、安全海域まで高速離脱できるという恐るべき龍神であった。
そしてブロック工法による量産化で月一艦を建造目標とし、完成艦が実戦投入される直前で終戦となり全艦米軍に差し押さえられ、うちイ201潜、イ203潜の二艦が米本土に回航(イ202潜は日向後岬沖で海没処分)後、徹底的に調査をされハワイ沖で海没処分された。

時代が下って、海上自衛隊が潜水艦部隊を持ち、米海軍供与艦から自国建造をするに至り、その国産一番艦「おやしお」(SS-511)建造のノウハウにイ201型は大いに貢献した。
この事情は、大戦中のジェット特殊攻撃機「橘花」の技術が航空自衛隊初の国産ジェット機「T-1」に活かされたことと似ている。

 —————————
1) 調査目的で米国に回航された潜水艦六隻:空母型がイ400潜、イ401潜、イ14潜。輸送型がイ369潜。高速型がイ201潜、イ203潜。
2) 昭和18年8月6日に遣日作戦で日本に回航されたU511(ロ500潜)を参考に同艦を量産化しようとした計画が伊号第二〇〇型潜水艦計画だが、大型化(そもそも計画型番が伊号となっている)や主機関の相違などU511とはかなり異なる艦となったはずである。また、高速潜水艦計画はU511回航以前(18年7月)に藤森参謀が提出し、伊号第二〇〇系とは明らかに別の潜水艦建造計画であり伊号第二〇一型潜水艦計画は、二〇〇系を計画放棄し同計画に盛り込まれる予定だった独潜の技術(溶接や潜水艦のブロック工法)を加味し再計画したもので単なるマイナーチェンジ計画ではない。
3) 第71号艦:戦前の高速潜水艦試作計画(昭和13(1938)年~)で用いられた俗称で正式名称ではない。基準排水量195トン、全長42.8mの小型艦で、特殊潜航艇甲標的(とその試作型)のデータが基となっていてある意味甲標的のスケールアップ版ともいえる。1200馬力(600馬力並列二基)ダイムラーベンツ製エンジンを 搭載し水中速力25ノットを目指したが、エンジン調達に失敗し既存の300馬力国産エンジン(一基)を搭載し、そのことで完成後の水中速力は計画値より4ノットほど落ちた。ただいくら高速艦であっても搭載火器、攻撃・防御能力さらにはシステム運用や使用目的などをトータルで考慮しなくてはならず、水中速度の優位性以外にメリットが少ないと判断されたためか昭和16(1941)年に破棄解体された。
4) 乙型、丙型、海大型、中型・・etc、潜水艦の艦種系統の多さはまさに “潜水艦の博覧会” だった。つまり藤森参謀は攻撃型の艦種を絞ることで潜水艦の量産性と機材統一を図ろうとした(余談だが系統の多さはかつての日電製パソコンPC98シリーズに似ていると思う)
5) 搭載二次電池は、特殊潜航艇甲標的と同じ「特D型蓄電池」で伊201潜は2088個搭載(異説4千余個)とされる。小型突撃艇用に開発されたこの電池は、瞬発力を得るために大容量高出力を実現したが、作戦行動時間の長い大型艦に搭載する目的ではなかったため船体サイズからいってもイ201潜向きではなかった。そのため通常の帝国海軍潜水艦に搭載されている「一号電池」(一〇型とか一五型などリビジョンがある)と呼ばれる蓄電池であれば多くとも数百個ですむところを小型とはいえ数千個も積まねばならず、当然ながら装置の個体差が多く生じやすくトラブルも多かった。さらに製品そのものの信頼度が低く充電むらやショートを起こしやすい扱いづらい電池であった。なお伊202潜に至っては火災事故を起こしている。そのため伊207潜からは通常蓄電池の搭載へ設計変更をしたという
6) 同じ時期、水中最高速力17.5ノット出せた独潜XXI型などドイツも高速艦の開発を進めていた。そして日本は同盟国として得ていたその高速独潜の技術情報を渡欧中だった友永英夫造船中佐が持参帰国(途上、独潜内で自決)し高速艦のさらなる性能向上に役立てようとした。

引用参考文献:
(1)『深海の使者』吉村 昭 文春文庫、1990年7月5日第11刷発行
(2)『幻の潜水空母』佐藤 次男 光人社、2001年7月15日発行
(3)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行

  • 本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
  • 帝国海軍潜水艦の名称について、呂号第五〇一潜水艦、伊号第五八潜水艦といった呼称もしくは表記が正式な用い方ですが、本記事中では当時からの俗称、略称であったロ501潜、イ58潜といった表記も併せて行っています。

【艦船シリーズ】3 米国の海上輸送戦略―リバティー船

 現在のアメリカ合衆国、言わずとしれたこの超大国は工業大国であり、また同時に海軍王国でもある。
しかしながらこの歴史的にも若い国家は、工業政策こそ独立直後から拡充を推し進めてきたが、その海軍力が充実しはじめたのは19世紀末から20世紀初頭にかけてで、こと米西戦争(1898(明治31)年)において、アメリカ大陸周囲の大西洋と太平洋に展開していたスペイン艦隊をアメリカ海軍が駆逐し勝利を得た後のことである。

そのアメリカが、工業力と海軍力を前面に出し底知れぬ力を発揮させたのが第二次世界大戦で、交戦国はその圧倒的物量の前に苦戦を強いられた。
強大な海軍力、すなわちそれはアグレッシブな造船力を意味し、第二次世界大戦中に日本とアメリカが建造(竣航させた)した主要戦闘艦数を比較して見ると、

と数字だけを見てもその実力をうかがい知れる。

そしてアメリカはこれら戦闘艦以外に、「リバティー型貨物船:liberty ship」(以下「リバティー船」)と呼ばれる戦時設計輸送船も大量建造し、戦地や連合国陣営拠点への任務航海を行い最大効果で運用した。

1939(昭和14)年9月1日、第二次世界大戦がナチスドイツ軍のポーランド侵攻により勃発し、直後から始まった破竹の電撃戦を展開する同軍の前に連合国陣営は初戦で追い詰められ、翌40年5月から6月にかけて起きた “ダンケルクの戦い” は連合国軍の大敗北となり、結果ヨーロッパ大陸の連合国諸国はすべてナチスドイツに降伏、イギリスは他の亡命政府と共に英仏海峡を隔て枢軸国と戦うこととなった。
日本と同じく、本国が島国であるイギリスは古くから海上交通が発達し、大戦勃発時には2100万総トン、延べ4千隻もの商船を保有する世界随一の海運国家であった。
しかし、「アセニア事件」 1) をきっかけに商船への攻撃を禁じていた「ハーグ協定」を破棄したカール・デーニッツ提督率いるドイツ潜水艦部隊による無制限攻撃を受け、開戦から僅か一年で310万総トンもの商船を失った。
その後も供給をはるかに上回る消耗を続け、イギリス当局は打開策として自国内の造船所を拡充し、急造商船の建造を急がせたものの自国内の建造能力では追いつけなかった 2)

そのためイギリスは、盟友国アメリカから輸送船の貸与を受けることを望んだが、開戦当初のアメリカは枢軸国と敵対してない中立国であり、積極的な軍事援助はドイツとの交戦へと発展しかねず表面上は消極的な姿勢を取っていた。
とはいうものの、欧州での戦争は既に対岸の火事では済まない情勢下にあり、ドイツのみならず日本との緊張軋轢も増すなか、水面下では欧州戦線に投入すべく戦時急造船の建造を進めていた(アメリカが連合国に軍事援助するレンド・リース法は、参戦に先立つ1941年3月に成立)。
そして1941年12月の日本との交戦を皮切りにアメリカが正式に第二次世界大戦に参戦し、同時に戦時急造船の建造も本格的に開始した。
この急造船の代表的な型が「リバティー船」と呼ばれる7000総トンの標準設計急造船で、建造にはブロック工法と電気溶接を駆使し、驚異的なスピード 3) により続々と建造していきイギリスなど欧州や太平洋に送り出された。

「リバティー船」の主機関は、新式高性能タービンの搭載は見送られ、従来からある2500馬力レシプロ式機関を搭載したため、低速(航海速力11ノット)だったが、こなれた技術の主機関は古参船員などに好評でメンテナンス性や実用性に優れており、選択は理にかなっていた。
一方で当初の評価は、日本の「第二次戦時標準船」と同じく粗製濫造の代表選手のように酷評され、事実竣役初期は海難事故が絶えなかったが(しかし日本の二次船のように二重底や曲線型船体の廃止などはしていない)、欠陥は常に技術者へフィードバックされ、次第に完成度は上がっていった。

完成した「リバティー船」は順次投入され、欧州戦線では任務輸送の最大の脅威とされた敵Uボート隊による群狼戦術には随伴の護衛空母、護衛駆逐艦で対抗し弱点であった低速航行を克服し、その後の連合軍による大反撃に多大な貢献をした(ただしイギリスにおける商船損失は、1943年(年間損失:781万総トン)あたりまで減少することはなかった)。
太平洋戦線においては、戦争後期以降に占領した環礁泊地やフィリピン戦線などに最大量投入され、その絶え間ない物資供給の前に日本軍は各地で次第に追い詰められていった。
なお、太平洋戦線に投入された「リバティー船」は欧州向けとは武装面で若干の違いが見られる。
基本火器は、船首3インチ単装砲1門と船尾5インチ単装砲1門それに20ミリ対空機関砲8門でしたが、日本軍の海上での波状航空攻撃(ことレイテ沖海戦(44年10月)後の特攻機対策とされる)に備え、対空機関砲を4~5門増設してた。

戦争はある意味、いかに物資を大量にそして早く正確に運ぶかがカギであり、大量建造され世界中にあらゆる物資を運搬する「リバティー船」は連合国を勝利に運び上げた影の功労者といっても過言ではない。
アメリカはこの「リバティー船」だけで 4) 、戦時中2712隻(1810万総トン)建造し、235隻が敵の攻撃や事故などで損失した。
戦後稼働可能とされた「リバティー船」は1700隻ほどで、そのすべては連邦政府籍の官船であったため、他の海軍余剰艦艇と共にハドソン川などに設けられた淡水集積地に係留されたのち、世界各国に売却されていった。
購入した国々(日本の海運会社は購入していない)は、急造船であった「リバティー船」を独自に補強し耐用年数をあげその後も長い期間使い続けたという。大量購入をしたギリシアやパナマなどは、戦後に海運国家として名を馳せ、「リバティー船」のもたらした効果が絶大であったことを物語っている。
1960年代にいたってなお、アメリカ国内には約800隻(航行不可能船含む)の「リバティー船」が存在していたが、これらも世界各国へスクラップとして売却された。

現在、ジェレミア・オブライエン号(SS Jeremiah O’Brien)とジョン・W・ブラウン号(SS John W Brown)が記念船として保存されていて、航行すら可能である。

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1) 第二次世界大戦開戦直後1939年9月3日、グラスゴーからニューヨークに向かっていたイギリス客船アセニア号〔(SS Athenia ):1万3465総トン〕がアイルランド島西方沖を航行中、同海域を哨戒中のドイツ潜水艦U30により雷撃され沈没し112名(うち28名がアメリカ人)の乗員乗客が死亡した事件。U30艦長フリッツ・ユリウス・レンプ大尉は、アセニア号が無灯火でジグザグ航法をとっていたのを敵仮想巡洋艦と判断し攻撃をしたと上層部に状況説明した。事件は結果的にドイツのハーグ協定廃棄に繋がり、以後ドイツ潜水艦部隊は敵対国と中立国の商船に対し無警告攻撃を行うようになった。
2) 第二次世界大戦中のイギリスにおける戦時急造船は「エンパイア型」(7280総トン)と「フォート型」(7140総トン)の二船種あった。どちらもレシプロ式機関を搭載し他の英連邦国にある造船所でも建造を進め、「エンパイア型」290隻、「フォート型」60隻が大戦中に建造された。
3) 1942年時点で起工から進水まで平均して2ヶ月ほど(後に同じ2ヶ月で艤装完了までスピードが上がった)。ちなみにロバート・E・ピアリー号(SS Robert E Peary)に至っては、起工から僅か7日で進水・艤装完了させたという信じがたい記録を生んだ。
4) アメリカは「リバティー船」以外にも1万総トンクラスの「T2型標準油槽船:T2 tanker」(油積載量1万6700トン、航海速力14.5ノット)を約500隻、戦後の平時使用を考慮した「ヴィクトリー型貨物船:Victory ship」も414隻建造した。この「ヴィクトリー船」は強力な6000馬力のタービン機関を搭載した8000総トンクラスの輸送船で15ノットの航海速力が出せた。なおどちらもブロック工法と電気溶接が全面的に採用された。

引用参考文献:
(1)『戦時標準船入門』大内 建二 光人社、2010年7月23日発行
(2)『輸送船入門』大内 建二 光人社、2003年11月13日発行
(3)『別冊歴史読本第25(322)号 日米海軍海戦総覧』新人物往来社、1995年11月24日発行
(4)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行
(5)Historic Naval Ships Association. http://www.hnsa.org/
(6)Project Liberty Ship http://www.liberty-ship.com/

  • 本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。

【艦船シリーズ】2 日本商船隊の戦い

江戸期、四面を海に鎖されていた我が国は、嘉永6(1852)年黒船来航により門戸が開かれ、その僅か90年後の昭和16(1941)年においては、商船保有数約610万総トンという実質的に英米についで第3位を誇る一流造船国家となり、太平洋戦争中も約338万総トン※もの商船を建造した。
しかしながら、昭和20年8月の戦争終結時には約134万総トン796隻(稼働可能船は約80万総トン)が残存していたに過ぎず、実に損失総数約814万トン、乗組員殉職戦死者数約4万数千人とも言われる膨大な生命財産の犠牲をだし壊滅した。

いずれも年次 漁船、官庁船、その他特殊船を除く日本国籍を有する100総トン以上の鋼船


(オロノ島近海で、B-25の攻撃を受ける貨物船)

壊滅に至る原因は一言では語ることが出来ない多数の要因があったわけだが、その一つに近代戦争における商船そのものの運用が他国と異なっていたことがあげられる。
第二次世界大戦では、世界各国で多くの商船隊が誕生、組織化され同時にかつてない規模の消耗戦が繰り広げられた。
そこで、広大な海原に戦域を持つ日米英の三カ国は、時同じくして『戦時標準設計船』(以下「戦標船」)と呼ばれる量産商船の建造を行った。
米英は、リバティー船と呼ばれる工業大国米国で建造された戦時輸送船を大量建造し、随伴護衛空母と共に船団を組ませ送り出し結果的に物量に対する優位性から枢軸国を圧倒した。

一方我が国は、「戦標船」という発想(必要性の認識)そのものは米英と同じながらも、「戦時設計」という概念そのものの欠如から、太平洋戦争初期に建造された輸送船は戦前からのそれとほぼ同じ設計で、工数の若干短縮と工作部品の少量化、自衛火器の搭載程度にとどまっており、ある意味 “ハイスペックな戦標船” であったと言えた(これは商船改装空母も同じで貨客船「出雲丸」から改装した空母「飛鷹」などは正規空母並みの艤装を施された)。
しかし、戦局が悪化し商船大量損失という現実を突き立てられ、ようやく “戦時急造” へとシフトし、工法の見直しなどで生産率は向上したものの、造船原材料の不足と長引く戦争による国内工業力の疲弊、さらには制海空権の切迫などで商船の消耗は悪化の一途を辿り、やがて終戦にいたった。


(ラバウル港内で空襲を受ける貨物船)

我が国初の戦標船は、後に「第一次戦時標準(設計)船」と呼ばれ、その発想は意外に早く第一次世界大戦時既にあったが、同大戦終結と共に立ち消えとなった。
その後、昭和12(1937)年の日中戦争勃発で、大陸移送用に大量の輸送船が必要と見込まれ、船舶改善協会(逓信省外郭団体)が戦標船の骨子を策定(と言うか提唱)しました。
そして昭和16年までに、長距離航行用貨物船をはじめ油槽船、鉱物運搬船など10種類の形式(下表)が定められ、順次建造されていった。

しかしながらこの第一次戦時標準船は、船型や構造、仕様などが統一化されただけで、無骨ながらも全体の船容は流麗で滑らかなフォルムを持ち(シア:舷弧のカーブなど)、見た目の美しさは保たれたままという平時の輸送船とあまり大差なく、建造工期もそれなりに時間がかかるため(6千総トン級A型貨物船で約8ヶ月)、量産性は無きに等しかった。

【前期戦標船 6千トンクラス一般貨物船の例】


日米開戦後、日本軍のミッドウェイ島攻略戦(昭和17年6月)失敗から始まる連合国軍の反撃は、中部太平洋ソロモン海域で激しさを増し、ことガダルカナル島をめぐる戦い(17年8月~翌2月)では、日本から送り込んだ輸送船のうち約20万総トンが損失したとされるほどの果てしない消耗戦となった(なお輸送船が不足し、高速な駆逐艦部隊による鼠輸送作戦も行った(米軍呼称:Tokyo Express))。



(ガダルカナル島に擱座後投棄された山月丸(上)と鬼怒川丸(下))

同様、帝国海軍のMO作戦とそれを断念させた珊瑚海海戦(17年5月)に始まり、同陸軍が陸路を強行してまで落とそうとした一連のポートモレスビー攻略戦において、 ニューギニア島北岸占領地に対する物資輸送作戦でも約14万総トンの商船が損失した。


(ニューギニア戦線で敵機から全力回避中の貨物船)

果てのない消耗戦が続く中、工数のかかる戦標船を簡略化すべく新たな策定が行われ、それまでの戦標船が民間企業(団体)も交えての建造だったものを海軍艦政本部直轄での策定が行われ、後世に名を残す恐るべき第二次戦時標準船(以下「二次船」)が生まれた。

昭和18年の7月から建造された二次船は、まず見た目からしてそれまでの曲線的なデザインを工作が容易な直線的に改められ、細部にわたるまで簡易構造となり(例えば居住性の度外視や船具の省略など)極めつけは、二重底の廃止という船の安全性までも二の次という徹底ぶりだった。
さらに量産性の優先から、高性能機関は搭載されず低馬力簡易構造の主機関が採用されたため、出力不足による低速航行を余儀なくされた。
造船技術としては、予め分けられた部品を個別に作っておいて、それらを一気に船体に貼り合わせていくブロック工法と電気溶接技術が採用され、6千トンクラスのA型貨物船(2A)の中には起工からわずか一カ月足らずで進水まで行ったものまで現れた(戦争中に建造された約338万総トンの商船の大半はこの二次船)。

【後期戦標船 6千トンクラス一般貨物船の例】


しかしながら粗製濫造の汚名は免れず、実際には海運業者に引き渡されたあと船主側で機関調整や船体補修を行わないとまともに航海できる代物ではなく、耐用年数も2年程度(実際には1年未満)だった。
当然ながら輸送業務は難航を極め、通常航行さえ怪しいうえ戦場という特殊環境下での二次船は、断末魔に喘ぐ大洋の笹舟に等しく、生還率の少ない “特攻商船” に外ならない。
艦政本部は強行して二次船の建造を推し進めたものの、最大の欠点であった低速航行に目をつぶるわけにはいかず、二次船の増速型(3~4ノットの高速化)として第三、四次戦時標準船を策定したが、僅かな建造数で終戦を迎えた。

終戦時には、冒頭で記した僅か約80万総トンしか稼働可能な商船は残されていなかったが、修理可能船を含め多くの戦標船が戦後に二重底への改良工事などを施されたのち(多くの船台は終戦時に無傷だったという)、昭和30年代まで稼働し続け、我が国の戦後復興へ多大な貢献を残した。
また、ブロック工法や電気溶接技術なども品質管理の向上と共に戦後飛躍的に進歩し、その技術そのものが造船の標準工程となって、やがて良質で生産性の高い造船技術へと繋がり、昭和40年次には保有商船数が1000万総トンを超え、戦標船の技術と教訓により日本は再び造船海運大国そして世界のトップへ躍り出るのだった。


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引用参考文献:
(1)『昭和船舶史』毎日新聞社、1980年5月25日発行
(2)『戦時標準船入門』大内 建二 光人社、2010年7月23日発行
(3)『輸送船入門』大内 建二 光人社、2003年11月13日発行
(4)『別冊歴史読本第68(266)号 太平洋戦争総決算』新人物往来社、1994年11月11日発行
(5)総務省統計局(http://www.stat.go.jp/)各種船舶統計

  • 本戦記関連の記事は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
  • 本記事中の写真は『昭和船舶史』から転載しています。

(目次) 大東亜超特急―弾丸列車構想

 大東亜超特急―弾丸列車構想

■1. 弾丸列車計画―東海道本線を拡充せよ
■2. 弾丸列車計画―始動
■3. 対馬・朝鮮海峡海底トンネル
■4. 戦時下に進む新幹線工事、そして戦後
■5. 中央アジア横断鉄道


〈目次〉 山河残りて草木深し―日本本土決戦

 山河残りて草木深し―日本本土決戦
(シミュレーション架空戦記)

 はじめに
 《登場人物紹介》

■1. 序 ―帝国包囲 昭和二十年九月
■2. 決号作戦 ―国力と軍編制
■3. ダウンフォール作戦 ―連合国軍の日本本土侵攻計画
■4. 風雲南九州
■5. 薩南戦争
■6. 上陸
■7. 死闘、宮崎攻防戦
■8. 日本軍敗走
■9. 決戦、霧島山地 1
■10. 決戦、霧島山地 2
■11. 決戦、霧島山地 3
■12. 神山燃ゆ 1
■13. 神山燃ゆ 2
■14. 南九州陥落
■15. 落武者
■16. 帝国海軍 建武七号作戦
■17. 戦艦ミズーリ轟沈
■18. 始動、コロネット作戦
■19. 関東会戦 1 ―蒼い空、紅い雲
■20. 関東会戦 2 ―火神
■21. 関東会戦 3 ―成層圏に舞う天女
■22. 関東会戦 4 ―太平洋の果て
■23. 関東会戦 5 ―帝都激震
■24. 橘烈飛翔
■25. 関東会戦II 1 ―Terminus of the Tokyo Express
■26. 関東会戦II 2 ―蹂躙関東平野
■27. 関東会戦II 3 ― 三・二(3.2)八王子立川会戦
■28. 関東会戦II 4 ―帝都攻略
■29. アメリカ陸軍コマンド部隊
■30. 北の雷鳴 1 ―ペトロヴィチ作戦発動
■31. 北の雷鳴 2 ―赤軍電光石火
■32. 北の雷鳴 3 ―日本東北区人民戦線
■33. 桜吹雪の星条旗 ―マッカーサー東京入城
■34. オアフ協定
■35. スティーブン・フォスター作戦開始
■36. 信州散花 1 ―神雞と不死鳥
■37. 信州散花 2 ―峠
■38. 信州散花 3 ―善光寺決戦
■39. 信州散花 4 ―さいごの空戦
■40. 昭和大乱 ―信濃京
■41. 山河残りて草木深し…

大東亜超特急―弾丸列車構想(5)

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■5. 中央アジア横断鉄道

「弾丸列車計画」で描かれてた日本と中国大陸、欧州とを結ぶ鉄道網建設整備計画は、構想的に壮大な大陸横断鉄道を想像しがちだが、実際には大陸に新しい鉄道を敷設しようとしたわけではなく、あくまで東海道山陽本線の拡充策、東京と下関との間に高速新線(新幹線)を建設することが最大の目的であり、大陸との連絡手段の効率化(例えば対馬朝鮮海峡トンネルの建設)などは「弾丸列車計画」の一部であることに間違いないものの、実際には別物であるとも考えられる。
しかし「弾丸列車計画」を語る上で、「アジアを駆け抜ける高速鉄道」の開発が時系列でいうと前史にあたり、直接的ではないものの計画のルーツとして、ここで挙げる『中央アジア横断鉄道計画』なる壮大な構想論があった。1)

昭和13(1938)年、勃発から一年余り経つ日中全面戦争は、前年末の南京攻略から、その後の徐州会戦や武漢作戦等により帝国陸軍が中国主要都市を次々と手中に収めるも、対する北伐軍(国民革命軍)が大陸奥地へ移動し混迷の度が高まりつつあった。
一方日本国内では、一種の「大陸ブーム」に近い現象が起きており、東海林太郎の「上海の街角で」や桜井健二「長江舟歌」など大陸を舞台の歌が大流行し、また芝居や書物、漫画でも “大陸物” がもてはやされた時期だった。

《大陸を走る列車1:満鉄 “あじあ号” パシナ型機関車》

さて、軍民挙げての “大陸進出” は鉄道界も例外ではなく、当時鉄道省鉄道監察官だった湯本昇が『中央アジア横断鉄道建設論』を発表した。
本論は、中国の包頭(パオトウ)からイラクのバグダッドまで7千4百キロ(予定走破時間10日)、かつて玄奘三蔵もしくはマルコ・ポーロが歩いたほぼ同じルートに鉄道路線を建設しようという夢のような妄想的構想であった。

構想に至る過程はとりあえず後にして、まずは “中央アジア横断鉄道” を使った日本と欧州とを結ぶルートを追ってみる。

(1)東京→北京→包頭

既設の鉄道(東海道山陽本線、朝鮮鉄道、華北・華中鉄道)と関釜連絡船を使用。当時優等列車が日本国内はもとより朝鮮鉄道(鮮満鉄道)でも走っていた。
ちなみに大正時代初期を例にとって時刻表を追ってみると。
新橋発8時30分の「特別急行列車(1レ)」は翌朝9時38分下関に到着し、ここで10時40分発の関釜連絡船に乗船できたという。そして釜山で20時50分発長春行き急行列車が待ち受け(連絡は毎日ではない)、翌早朝京城を発着、16時国境の鴨緑江を渡河し満州に入り21時53分(現地時間)奉天着。ここで大連発急行列車を併結し22時25分発車、そして翌朝4時50分に長春に着いた。所要時間は69時間20分。


《大陸を走る列車2:釜山発北京行き急行 “大陸号” 》

(2)包頭→トルファン→カシュガル

タクラマカン砂漠を東西に横断する鉄道路線を建設し、中国西端のカシュガルに至る。詳細なルートは不明ながらも、現在の「南疆線」のルート(同砂漠北縁)とほぼ同じと考えられる。ちなみに日本人としては大谷光瑞が探検隊を組織し明治時代末期から大正時代初めにかけ4次に渡りこの地を調査している。

(3)カシュガル→カブール

国境を越え、タジク・ソビエト(現タジキスタン)のパミール高原からヒンドゥークジ山脈を横断しアフガニスタンカブールに至る。現在でも鉄道路線はない。

(4)カブール→テヘラン

地形的にアフガニスタン中央部は避けると考えられる。恐らく北部トルクメン・ソビエト(現トルクメニスタン)国境沿いに建設されると推測。現在はイラン国内に鉄道網あり。

(5)テヘラン→バグダッド

ルートは未詳ながら最短コースのケルマーンシャー経由が考えられる。イラン革命以後、敵対していたイランイラク間の首都同士を直接結ぶ鉄道路線は現時点でもないが、実は建設計画は存在し進行中である。

(6)バグダッド→イスタンブル→ベルリン、パリ、ローマ

既設の鉄道網を使うとされた。バグダッドからモスルを経由しいったんシリアに入りトルコへ。アナトリア半島を縦貫しイスタンブルに至る。西欧州までは鉄道網が発達しており、オリエント急行に代表される優等列車も数多く運行されていた。


《大陸を走る列車3:満鉄 ダブサ型機関車》

ではこの『中央アジア横断鉄道』発想の原点を探ってみたい。
湯本は昭和5(1930)年から8年まで鉄道省ベルリン事務所長として渡独しており、その間欧州各地を見聞し、この構想を思い描いたと言う。2)
日本と欧州とを結ぶ交通手段は、長距離航空機が発達する以前、船舶と鉄道しかなく、一般的には約40日を要するスエズ運河経由の船便を使っていた。
陸路では1904(明治37)年に帝政ロシアの手により建設されたシベリア鉄道(ハバロフスク経由は1916年完成)が利用でき、約2週間で移動ができたものの、日露(ソ)関係は旧幕時代後期から火種の絶えない関係であり、同線の利用は常に不安定な状態だった。
さらに以後に起きた満州事変(昭和6年)と日中戦争(12年)、それに日独防共協定(11年)の締結など、日欧の速達性と安定度の高い交通路の開発やアジアでの迅速な軍事輸送路を確保することの必要性を湯本は考え、中央アジアを横断し最短で結ぶ鉄道建設の構想を描いたらしい。

そして各界の専門家や鉄道技師の意見も取り入れ、その目的として遠く離れた日独両国間の交通路確保、ソ連を牽制する防共鉄道としての役割(兵站輸送、戦術輸送)、中央アジアに潜在的に眠る石油や鉱物資源の取得調達など国益に即した現実的なものから、東西文化を結ぶ世界大道の復活(いわゆるシルクロード)や開拓鉄道、回教鉄道など大義名分的なものまで掲げた。
また建設には “支那との国境までは外国の勢力が取り入れられては困るがそれ以外であれば日本一国で建設する必要はない”  と述べていて中国全土を掌中に入れたかの如くご都合主義的な部分もある。
なお、包頭バグダッド間の総事業費として約12億円(現在換算で約6960億円)が見積もられたが、明らかに少なすぎる額(戦前計画新幹線、東京~下関間の見積額が約5億円)で、 “大陸横断鉄道を今にでも造れる” ことを演出した意図が見え隠れする。

本論発表から4年後、その僅かな間に航空機による長距離旅客輸送技術が飛躍的に発達し、また大陸のみならず太平洋を主戦場としたアメリカとの戦争に突入。長期化した中国戦線では、膠着状態が続き「大陸を駆け抜ける鉄道の建設」など既に時代遅れとなっていまい、国家総力を挙げて建設する必要性も薄れた。
しかしながらこの時期、しきりに提唱された『大東亜共栄圏』と『中央アジア横断鉄道』が奇妙にリンクし、帝国鉄道協会 3) の賛同を得て調査会が作られるなど、『大東亜新秩序構築』という国策にマッチしたことで実現に向けた動きとは別にプロパガンダツールとしての役割へシフトした。


《大陸を走る列車4:満州の原野を走る帝国陸軍装甲列車》

実際のところ、中央アジアを横断する鉄道建設は当時(第二次世界大戦前)の日本の国際政治力や国家財政力、技術力などからいって実行することなど限りなく不可能に近く、さらに中国全土を勢力圏に治めることや、欧州列強の利害関係など歴史的に複雑に絡み合うイスラム圏で日本が主導権を握ることなどまず不可能であり、論文そのもが初めから机上の空論もしくは未来科学読本だったと言わざるを得ない。

(大東亜超特急―弾丸列車構想 完)

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1) 「弾丸列車計画」は、「東海道本線輸送量拡充」と「大陸進出における円滑輸送」が交差し合いできあがっていったとも言える。
2) イスタンブルを訪れたおり、回教文化にカルチャーショックを受けたようで、以後イスラム圏の研究に傾倒し “文化産業の興らざる最大の原因は交通機関の欠如である” との考えに至り、 “同圏に交通機関を普及させることで古の繁栄を蘇らせようとした” ということが『中央アジア横断鉄道』の原点であると自著にあるが本心かどうか定かではない。
3) 帝国鉄道協会:明治31(1898)年11月発足。官営鉄道や各民間鉄道事業所間の意見集約、技術知識・課題の共有などを目的とした業界団体。昭和22(1947)年社団法人日本交通協会へ改称し現在に至る。

大東亜超特急―弾丸列車構想(4)

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■4. 戦時下に進む新幹線工事、そして戦後

昭和15(1940)年9月、新幹線路線(弾丸列車)用に約100万坪が確保された。
戦時統制下ながらも、大陸進出を国策として掲げている政府は、その尖兵たる新幹線事業に、建設資材としての鋼材やセメントを優先的に配分させ、起工から完成まで時間のかかる長大トンネル「新丹那トンネル」と「日本坂トンネル」の掘削から建設着工が開始されることになった。


終戦後の「新幹線丹那」(のちの新丹那トンネル)トンネル熱海口
※写真転載:『別冊1億人の昭和史シリーズ・昭和鉄道史』毎日新聞社より

このうち「新丹那トンネル」は、昭和5年に起きた「北伊豆地震」の教訓から昭和15年10月に断層関係の詳細な調査が開始され、その結果を踏まえ工事の準備に着手した。
在来線「丹那トンネル」では、丹那断層帯を貫く難工事で激しい湧水 1) と崩落落盤事故によって多くの犠牲者を出しながら16年という長期間に渡る工事により貫通まで漕ぎつけた。
そのため、新トンネル工事では水抜用導水路を予め掘削し湧水対策を行い、地質関係では先の「丹那トンネル」により得られたデータがあるのでそれを元にすることができた。
さらに掘削技術に関しても、日本は高レベルなものに達していて不安要素はあまりなかったと言う。
そして昭和16年8月に「日本坂トンネル」とともに「新丹那トンネル」の工事が始まった。
しかしながら、日米開戦前夜のこの時期、「弾丸列車計画」に振り分けられた昭和16年度予算は1,418万7千円でうち7割が用地買収費用に回されたため、全体の工事費が120万円ほどしか残されていなかった。
翌17年には、戦争が一層の激しさを増していき、国内の鉄道は軍事輸送が最優先とされ10月6日に閣議決定した「戦時陸運非常体制」により旅客列車の運行は激減した。
このような情勢下で迎えた昭和18年、新丹那トンネルの工事は引き続き進められたものの 2) 、弾丸列車計画は、時局から “新幹線事業” は “既に時代に即しない事業” にほかならず、 8月に工事中止を鉄道省は決定するにいたった。

—— ◇ ——

昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦で第二次世界大戦は終結。
日本の鉄道網は、空襲により壊滅状態になったものの、それは停車場と運行車両に限られ、橋梁やトンネル、都市部の高架を含めた路線の被害は最低限に止められていた(戦争中も鉄道の全面運休はなかった)。
これは米軍の攻撃対象から鉄道が除外されていたためであり(当時の日本で “唯一整備されたインフラ” を米軍が占領後に利用を考慮したためとされる)、徹底的に破壊された船舶とは対照的と言える。
長距離列車や特急の運行も徐々に復活し、昭和24年には国営鉄道が独立採算事業体としての国鉄へ転換。同年9月は戦後初の特急「へいわ」(東京駅~大阪駅間、所要時間9時間。翌年1月に「つばめ」に改称)が誕生し翌年5月には特急「はと」(同じく東京駅~大阪駅間)も誕生した。
“もはや戦後ではない” と呼ばれた昭和31(1956)年、東京大阪間が全面電化が達成され「つばめ」「はと」が同区間を7時間30分で結び、一層のスピードアップが成し遂げられたものの、戦後復興と経済発展により東海道本線の輸送需要量は戦前からの懸念同様限界に達していました。
時代は鉄道から自動車、さらに航空機の発達により世界的衰退の一途を辿っていた事を十分に理解していた国鉄総裁十河《そごう》信二は、日本の国土にマッチし、社会のニーズに即した高速鉄道網を整備することにより、それらと対抗できると目算しており、実現には広軌の新線に『弾丸列車』を走らせるのが最良の手段と考えてた。
十河はかつて鉄道院総裁後藤新平のもと標準軌改軌を島安次郎とともに唱えた人物で、島と同じく満鉄に移り「あじあ号」の運行に直接携わっていたため、高速鉄道には広軌化が必至であることを身をもって知ってた。
そして旧海軍航空技術廠から松平精と三木忠直、国鉄を一度退社し民間企業の技術顧問をしていた島秀雄 3) らを国鉄技術陣に招き入れ、島が「東海道線増強調査会」会長に着任した。
なお調査会には、戦前から戦中にかけ三菱重工業で零戦の設計に従事した曾根嘉年や陸攻などの製作にあたっていた疋田《ひきだ》徹郎といった者たちも加わっており、ここに “新幹線” 建設に向けた布石ができあがった。
昭和31年5月には、銀座山葉ホールにて行われた「鉄道技術研究所創立五十周年記念講演会」で国鉄技術陣から、“表定速度150km、最高速度250kmの高速列車を走らすことは現代の技術で十分可能である” という高速鉄道研究の成果が発表された。
その後の計画は迅速に進んでいき、小田急の高速実験車両(スーパーエクスプレス号)を使った走行実験や十河のロビー活動を経て、昭和33年7月正式に「東海道新幹線」が運輸大臣永野護の承認を受け計画建設がスタートした。

路線は「弾丸列車」のルートを基本とし、そのため用地買収も20%近く済んでいた。また戦時中に「日本坂トンネル」は既に貫通し、「新丹那トンネル」も途中まで掘られていたなど好条件が揃っていたため、建設はスムーズに進行していった。
その間、島を中心に新幹線車両の研究と開発が進められ、昭和37(1962)年4月に試作車が完成、続いて量産化された。

白色に青線で配色され愛着溢れる丸みを帯びたユーモラスな車体は、戦後復興と経済躍進の日本の “顔” となっていき、昭和39(1964)年10月1日、新幹線東京発新大阪行き「ひかり1号」は、その姿が名前に相応しく一筋の光矢の如く、圧倒的速さで西へと駆け抜けていった——。

(つづく)

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1) 丹那トンネル工事では激しい湧水に見舞われ、そのため水抜坑による導水をした。その水量は10万トン/日という途方もない量だった。またトンネル上部に位置する丹那盆地(旧函南村)は、工事が原因と思われる水源渇水に見舞われた。
2) 他に、東山トンネル、大高―名古屋、京都駅、大阪駅、大阪―西宮、六甲トンネル、姫路―(寒河)―岡山、岡山駅、尾道―広島の区間が工事着工されることが同時期決定した。
3) 島秀雄:弾丸列車計画の実質的なリーダー島安次郎(終戦後の昭和21年死去)の長男であり、戦前は傑作貨物牽引機D51などに代表される多くの蒸気機関車の設計に携わり、彼自身も弾丸列車計画に参画していた。なお次男の隆もまた国鉄の鉄道技術者で0系、200系など新幹線車両の設計に携わった。

大東亜超特急―弾丸列車構想(3)

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■3. 対馬・朝鮮海峡 * 海底トンネル

ここで『弾丸列車』という呼称について改めて補足したい。
『弾丸列車』とはあくまで通俗的な名称(世界的流行語に近い)で、公文書の正式呼称は『新幹線』もしくは『広軌新幹線』、『高速鉄道』と呼ばれている。

新幹線計画は昭和15(1940)年秋頃から急ピッチで実現に向け動き始めた。
ルート地形図は、当時としては画期的な航空機測量(立川飛行機KS測量機もしくは三菱九二式偵察機改とも)を行い15年末に完成。また高速鉄道に不可欠とされるレールは、つなぎ目なし1,000mタイプを新たに開発(これまでは寒暖差の伸縮を考慮した25m)した。
また実際に用地買収や工事事務所の開設など “国策” として次々と新幹線プロジェクトが起工していった(別掲にて後述)。
そして国内各地で始まった新幹線用トンネル工事とあわせ、対馬・朝鮮海峡でも現地調査が行われ海底トンネル掘削への準備(までは行かないが)を開始した。
『弾丸列車』は終着駅が下関となっており、そこから連絡船に列車ごと乗り込み朝鮮半島へ渡る計画となっていた。
しかしながら船舶を使わず海底トンネルを建設するとなると、下関から朝鮮半島では距離が長いため現実的ではなく、最短である佐賀県北西東松浦半島から壱岐島、対馬を経て朝鮮半島まで向うルートがいちばん得策と判断され、同海域を昭和15年5月頃から本格的に調査 1) を開始した。

海底トンネルとしては世界初の「関門トンネル」が昭和11年に起工され、14年4月には先通導坑が貫通し、本坑の完成も目前(16年7月下り線貫通、19年9月には上り本線が完成し複線化)で日本の隧道掘削技術も成熟期を迎えようとしていた時期と相まって新幹線関係者達は実現させられる自負があったと推察できるが、総延長200キロという長大隧道 2) となるわけで、諸問題も数多くあった。
朝鮮海峡トンネルは大きく分けて次のパーティションが考えられる。

(A)東松浦半島(加部島経由)から玄界灘の加唐島か小川島まで
(B)加唐島・小川島から壱岐島まで〔壱岐水道〕
(C)壱岐島から対馬〔対馬海峡〕
(D)対馬から朝鮮半島(釜山もしくは巨済島)〔朝鮮海峡〕

の四つが独立したトンネルとなり、それぞれの間は島内に陸上路線(もしくは陸上トンネル)を建設し走行させるといったものだった。

(A)(B)トンネルは、長さが約6kmと約17km、水深が最深部約50mと測定され地質学的にも問題はなく掘削できると判断された。
(C)トンネルは、長さ約54km、水深は約130mあるもののこちらも「掘削可」と判断され、対馬まで(対馬海峡)は容易に海底トンネルを造れると結論づけられた。
しかし問題は対馬釜山間の(D)トンネルで、長さは64~70km(巨済島までが最短)ほどで当時の掘削技術でも「どうにか掘れる」長さだったものの(とは言うが不可能に限りなく近い)、水深が230~240mもの深い箇所があり、さらに地質は白亜紀の砂目状で海底トンネルを掘削するには非常に難易度の高いことが判明した。
そのため、朝鮮海峡エリアでは通常海底トンネルの代替案として、海底に橋桁を打ち込みその上にチューブ状の人工トンネルを載せ内部に列車を通すというまるで “少年空想科学本” に出てきそうな内容の提案を陸軍省(挙国体制の弾丸列車計画は、軍事輸送の面もあって当然陸軍側の承諾がないと進められない)に出したものの、図面を見るなり「魚雷で海底橋梁がやられたら終わり」と否定されてしまい、これが原因かどうか以後戦争激化とともに朝鮮海峡トンネルの計画は頓挫した。

なお平成17(2005)年3月20日に起きた福岡県西方沖地震の震源は本海域を震源とし、玄界灘、対馬西方にも活断層の存在が認められ、現在では本海峡海底に掘削するトンネル建設にはやや懐疑的な見方が大勢である。
もちろん戦前でも活断層がトンネル建設に影響を与えることは知られていたが、 3) 当時はまだ同海域にある断層(注:断層の存在は海底調査により判っていた)がどのような活断層かまでは判っていなかった。

一方、内地での新幹線工事は戦時統制下の中でも着実に進捗していた。

(つづく)

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1) 鉄道技術研究所の渡辺貫博士を長とする地質探査班により通常のボーリングと「弾性波式地下探査法」と呼ばれる人工地震波の伝波を利用した測定技術を用いた。本方式は関門トンネル掘削調査時にも用いられた。
2) 鉄道自動車トンネルの長さでは、2011年7月現在、青函トンネル53.85kmで世界最長。しかしながら建設中のスイスゴッタルドベーストンネルの長さが57.091kmなので完成予定の2018年には青函トンネルが世界第二位となる。なお三位は英仏海峡トンネルで50.5km(海底部では世界一)。
3) 活断層がトンネル建設に与えた事案として、丹那トンネル(東海道本線、熱海函南間)建設工事が挙げられる。掘削中の昭和5年11月、三島口切端(羽)(きりは:トンネル掘削先端部)が活断層面に到達し工事を一時中断。おりしもその時、同断層帯を震源とする「北伊豆地震」が発生し断層の東側が北へ西側が南へ大きく動き、切端にあったはずの左右の支柱の右側にあったものは左隅に移動し、左支柱は完全土中にめり込んで見えなくなってしまった(断層運動距離は2.44mとの記録がある)。なおこの時の切端岩盤は掘削時の荒い岩肌ではなく、刃物で鋭くえぐったような鏡面状であった。また地震による落盤事故も発生し犠牲者が出ている。

*本記事中の「対馬海峡」とは、当時の時代背景を鑑み、現在の日本国呼称である「対馬海峡東水道」つまり九州と対馬間のことを指し、「朝鮮海峡」は対馬と朝鮮半島間の「対馬海峡西水道」を指しています。

大東亜超特急―弾丸列車構想(2)

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■2. 弾丸列車計画―始動

新幹線計画は、「鉄道幹線調査会」の他に「特別委員会」と呼ばれる11名のスペシャリストからなるチームによって内容が詰められ、委員長には日本の鉄道発展に大いに貢献してきた島安次郎が選ばれる。
島は鉄道技術者としてこれまで数多くの高速機関車の開発や技術革新に携わり、鉄道院総裁後藤新平の下、国有鉄道(戦後の事業体としての国鉄とはやや異なる)の輸送量増加を見込んだ広軌化計画に参画するも、狭軌を標準として採用した原敬内閣時に鉄道院を辞職しその後満州に渡って、南満州鉄道筆頭理事、社長代理などを歴任していた(言うならば “広軌派” の先鋒)。
特別委員会は昭和14(1939)年10月までに12回の会合を重ね、諸問題を抱えながらも新幹線建設に向け方向性をまとめ上げ、翌15年1月の『鉄道会議』で原案が完成し、同年7月の第七十五回帝国議会で上程された(注:弾丸列車構想の委員会や骨子策定などの経緯や経過、時系列に関して資料によって若干の差異がある)。

工事期間は、昭和15年から29年完成までの継続工事とされ、仕様の概要は以下のようなものとなった。

◇軌間
高速鉄道に不可欠要素として、軌幅は広軌と技術陣は考えていたが、陸軍が反対 1) 。しかしながら国内と大陸(さらには朝鮮満州を経てシベリア鉄道を経由しベルリンまで―荒唐無稽ではあるが)を連絡可能とするためにも広軌1.435mは必須とされ狭軌は不適と結論が下された。
◇電化問題、牽引機開発
当初新幹線の電化路線は必須とされた。時速200キロを実現させるためには電気機関車での牽引が現実的であり、委員会技術陣も電化を前提に検討を進めた。しかし、敵国からの空襲による電化施設破壊を恐れた陸軍の反対にあい、彼らの顔を立てる意味でも基本蒸気機関車牽引式とし、トンネル走行時のみ排煙問題から電気機関車で牽引することが決定した。
そして機関車は新たに

  • 旅客用蒸気機関車:HD53、HC51
  • 貨物用蒸気機関車:HD60
  • 旅客用電気機関車:HEH50、HEF50
  • 貨物用電気機関車:HEF10

を開発することを計画した。
中でも電気機関車HEH50の最高速度は時速200キロを目標とした。また蒸気機関車HD53は満鉄『あじあ号』(最高速度130キロ 表定速度82.5キロ)を牽引するパシナ型機関車をモデルとた。

◇ルート、始発駅問題
ルートは現状の東海道本線と山陽本線に併設した形での新幹線とし、停車駅を、東京、横浜、小田原、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関の18駅とした(諸説有り、この中から横浜、小田原、沼津、豊橋、姫路、尾道、徳山、小郡を除いた資料もある)。
始発駅は市ヶ谷、四谷、中野、高円寺、高井戸、新宿、目黒、渋谷、高田馬場など 2) (諸説有り、左は主な資料に書かれていた駅を羅列させた)が候補とされたものの結局は東京駅始発と決定された。
そして大陸への連絡は当面、下関から関釜連絡線を用い朝鮮釜山へ渡ることとしたが、将来的には対馬・朝鮮海峡に海底トンネル(もしくは橋梁)を建設することに決定した。

ではこの対馬・朝鮮海峡海底トンネルとはいったいどのようなものだったのか?

(つづく)

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1) 陸軍が広軌に反対した理由として、明治以後日本国中に張り巡らされた鉄道網は既に狭軌を採用しており、改軌による多額の建設費を捻出するより、狭軌のまま今以上に路線を拡充普及させたほうが得策と考えたためである。もちろん軍事輸送を国内で自由展開させる都合からであることは言うまでもない。しかしながら大陸進出を推し進める軍部は、既に広軌により張り巡らされている大陸鉄道網と円滑に連絡をするためには改軌もやむなしと方針転換せざるを得なかった。また一説では鉄道省大井町工場でおこなった改軌デモンストレーションを見た軍首脳達が、その工事の速さ(あくまで実験だが15秒で軌幅変更できた)を見たためとも言われる。
2) 先に起きた関東大震災や空襲による損壊を鑑み郊外始発駅案を模索した。

大東亜超特急―弾丸列車構想(1)

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■1. 弾丸列車計画―東海道本線を拡充せよ

昭和6(1931)年に勃発した満州事変以後、内地から朝鮮半島を含む中国大陸方面への輸送量が増え始め、さらに昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発する日中両軍の衝突は、全面戦争へと発展、やがて大陸奥深くに戦域が広がるにつれ軍事物資、人員などの大陸への輸送量も増大していった。
当時の大量輸送手段の主たる方法は、船舶と鉄道に限られており、うち鉄道は明治維新後富国強兵の一策として大きく発達を遂げ、こと東京、大阪、神戸など大都市を東西に結び、中国朝鮮への玄関先である九州方面へと延びる “東海道山陽本線” の輸送量は大陸進出と共に増加する一方であった。

昭和9年に着工から16年の歳月をかけ難工事のすえ完成した丹那トンネルが開通し、東京神戸間が50分ほど短縮されたものの、最速列車でも約8時間30分かかっており迅速性を要する戦時体制下ではさらなる時間短縮が望まれていた。
そこで鉄道省建設局では、時速200キロで走行し、東京大阪間を4時間30分、東京下関間を9時間50分で結ぶ超特急計画、『弾丸列車構想』を打ち出すにいたった。

昭和14年4月、鉄道省企画委員会鉄道幹線調査分科会(昭和13年12月発足)は先にあげたような情勢下での分析レポート「東海道本線山陽本線輸送量調査」を作成した。
本調査書は要約すると、『日本の大動脈である東海道山陽本線の輸送量増加で近い将来行き詰まり、この逼迫した状況の打開には新幹線(新しい幹線の意味。現在の新幹線とは異なる)の建設着工を早急にしなければならない』と言ったものであった。
本レポートは各界に波紋を拡げたものの、「新幹線」建設そのものについては反対の理由は少なく、昭和14年7月、鉄道大臣前田米蔵は、「鉄道幹線調査分科会」を発展解消する形で「鉄道幹線調査委員会」という22名で構成された諮問委員会を設けた。
委員会メンバーには関係各界の学識者や各庁高等官が招集 1) され、7月29日永田町鉄道大臣官舎にて第一回会合が開かれた。
鉄道省喜安健次郎次官から東海道本線と山陽本線の輸送量需要増加は、昭和25年頃までに両線行き詰まり何らかの方法を持って打開しなければならいといった説明が詳細な資料とともに委員会でプレゼンテーションされ、議論が交わされた。
そして、後日の会合で改めて以下のような「拡充案」が示される。

  • 線路の増設
  • 増設線路は現行線に可能な限り並行させる
  • 総延長は約1,000キロ
  • すべて複線とする
  • 軌幅は狭軌とするも大陸との接続を考慮し改軌を容易としておく(もしくは場所によっては予め広軌とする)
  • 長距離貨客列車専用路線とする
  • 最大勾配8‰(やむを得ない場合10‰)、最大曲線半径R1200(やむを得ない場合R800)とする
  • 最速目標時間、東京下関間約12時間、東京大阪間約6時間とする
長大トンネルと大都市部は電化路線とする
工事費用約5億円、昭和15年より着工開始し工期10ヶ年とする
しかしながら、これらは既に建設局で示されたもので一種の “政治的デモンストレーション” に過ぎなかった。
具体案の策定やテクニカルな部分は「鉄道幹線調査委員会」とは別に「特別委員会」と呼ばれる組織が実は設けられていて、「新幹線計画」は実質的にはそちらで推し進められた。

(つづく)

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1) 委員の顔ぶれの中には、後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時海軍次官)や山脇正隆陸軍次官(終戦時陸軍大将)、元満鉄理事大蔵公望男爵、同じく元満鉄社長代理島安次郎(新幹線の父 “島秀雄” 実父)など蒼々たる者たちが名を連ねていた。ちなみに後に論争となる軌間問題があるが、すでに主要メンバーが “広軌派” とされる者達で占めており方向性は予め決まっていた感がある。

引用参考文献(本記事他続編含む):
(1)『亜細亜新幹線』前間 孝則 講談社、1998年5月15日発行
(2)『闇を裂く道』吉村 昭 文春文庫、1990年7月10日発行
(3)『日本の鉄道全路線3東海道・中央本線』鉄道ジャーナル社、1996年12月1日発行
(4)『昭和鉄道史』毎日新聞社、1978年12月15日発行
(5)『時刻表でたどる鉄道史』宮脇 俊三、原口 隆行 JTB、1998年1月1日発行

  • 本記事(関連続編含む)は、私imakenpressの独自考察や推察推測、思考など多分に含んでいます。
  • イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
  • 国際的には軌間1.435mを標準軌といいそれ以上が “広軌” それ以下を “狭軌”と定義されています。しかし日本の場合、平野が少ない起伏に富んだ地形が国土の大半を占めているため、国有鉄道はその発展期から軌間1.067mの狭軌を採用し、それを “標準軌” としました。本記事中では文中の流れなどから “広軌” と表現している箇所は実際には “標準軌” が正しい表現方法です。

山河残りて草木深し《登場人物紹介》

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板倉 弦二郞(第156師団第455連隊所属 陸軍二等兵)
大正14年三潴郡荒木村生まれの和菓子職人。招集兵として本土決戦部隊に配属され、妻子を郷里に残し南九州戦線で戦う。国や家族のためには玉砕も辞さない覚悟をもっているが…

山岸 俊介(第156師団第455連隊所属 陸軍上等兵)
板倉弦二郞とともに宮崎から霧島に転戦。かつて中国戦線で戦った経験がある

原口 岩雄(第146師団第424連隊照輝隊指揮官 陸軍少佐)
華族ながらも情報戦・ゲリラ戦のエキスパート。日米開戦前から南方で工作隊を率い後方攪乱と情報操作を行う。戦局の悪化に伴い内地に帰還し本土決戦遊撃部隊「照輝隊」を指揮する

風岡 喜市郎(第146師団第424連隊連隊長 陸軍大佐)
若干38歳ながらも本土決戦急造師団「第424連隊」を託される。帝国陸軍軍人としては希有な合理主義者で原口少佐とは知己の仲。渾名は「幸村の兄貴」

木場 敬一(大分海軍航空隊 海軍航空隊飛曹長→海軍航空隊少尉)
戦闘機搭乗員。昭和13年上海上空にて初陣を飾り以後、精鋭204空などに所属し太平洋戦線各地を転戦。本土決戦に際し “紫電改” を駆るエース。後にジェット迎撃機 “橘烈” により編成された「烈神隊」隊長として敵機と死闘を演ずる

東埜 篤志(第312海軍航空隊所属 海軍航空隊少尉)
昭和15年、第12航空隊にて中国戦線で共に戦った木場の戦友。関東決戦にあたり高々度ロケット迎撃機 “秋水” で編成される「火神隊」 を率い天空の魔龍B-36に挑むが成層圏に散花する

鳥尾 嘉兵(海軍航空隊一等飛行兵曹)
太平洋戦域を渡り歩いた戦闘機乗りで沈着冷静な木場の腹心。“紫電改” と “橘烈” を駆る。どんな機体でも自分の手足同様に操れる技量を持つ

大平 文治(海軍航空隊一等飛行兵曹)
鳥尾の同僚戦闘機乗りで木場の左腕。「型どおりの訓練は受けていない」が口癖の強健強靱な身体と精神力を持つ。 “機械好き野郎” で車好き

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ハンス・ブラウン(第43歩兵師団第3大隊B中隊→特任部隊SOC 陸軍一等軍曹
高校時代は豪腕外野手。歴戦の職業軍人で太平洋各戦線から沖縄まで戦い抜き九州上陸作戦にも参加、部下からの信頼は厚く戦闘にも長けている。後に米陸軍特任部隊SOCメンバーとなる。除隊後はリトルリーグのコーチ就任が夢

マーカス “マーク”・エドモンド(第43歩兵師団第3大隊B中隊所属 陸軍一等兵)
カンザス出身の軍人一家で陸軍に志願入隊。日本本土侵攻作戦への従軍が初めての実戦となった

エドワード “エド”・アオキ(海軍情報局情報武官 海軍少尉)
日系二世。自身が立案した秘密作戦が採用されSOCメンバーとともに戦地奥深く進む。作戦の成否は日本の将来を大きく左右するほどのものである

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神州大日本帝国政府・神州救國会関係者

白谷 藤一郎(内閣総理大臣)
退役陸軍少将でかつて昭和維新を唱え幾度となくクーデターを画策した。昭和20年8月の政変により新政権を樹立し戦争継続の道を選ぶ

戸崎 信三郎
元近衛師団大尉で8月の政変立役者。昭和初期に政府転覆を目論むが失敗し北満に左遷され大陸を放浪、その後 “神州救國会” を設立する。アジア主義とも言うべき誇大妄想を持っている

三田村 淳吉
戸崎の “懐刀” 。裏社会で暗躍してきた

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政変以前の旧帝国政府関係者

鈴村 幾太郎(前内閣総理大臣)
慶応3年旧河内狭山藩出身士族。昭和20年4月に内閣を組閣するが8月の政変により倒閣され那須に幽閉される。白谷とは因縁がある。クーデター未遂 “2.24” 事件で生死を彷徨った過去がある

古尾 勝吉(前侍従長)
終戦工作機関「光明会」に身を置き終戦を模索

袋内 太郎(元駐英大使)
元駐英大使、開戦後親英派として外交官を罷免されるも鈴村政権で再び外務官僚に返り咲く。しかし8月の政変で再び罷免。終戦工作機関「光明会」に身を置き終戦を模索

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帝国陸軍関係者

加治木 亘(第1総軍総司令官→総隊軍司令官 陸軍大将)
本土決戦、“決号作戦” における総司令官。クーデターには同調したが、“神州救國会” を内心快く思ってない

前田 貢(第57軍総司令官 陸軍中将)
宮崎、鹿児島が陥落した後、南九州の戦力を集結させた霧島陣地で連合国軍に決戦を挑むが…

良松宮 蓮彦王《よしまつのみや・はすひこおう》(皇族 軍事参議官 陸軍中将)
軍人皇族の主戦論者。戸崎とも古くから昵懇で本土決戦をいち早く支持していた。奇策妙計にて鬼炎立つ性格

椚田 与一(第15方面軍司令官 陸軍大将)
白谷派軍人。ヒューマニストとして内外に知られていた人物で、帝国の惨憺たる有様を目の辺りにし結果神州帝国軍と距離を置いていた

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帝国海軍関係者

橋本 以行(伊号第五八潜水艦艦長 海軍中佐)
重巡インディアナポリスを轟沈せしめる大殊勲を上げるなど歴戦の潜水艦艦長。残存潜水艦部隊を率い狙うのは…

小園 安名(第302海軍航空隊(厚木)指揮官 海軍大佐)
厚木基地にて航空隊を指揮。かつての木場と東埜の上官

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民間人

生田 隆栄《りゅうえい
表向きは、軍需品商社「報国商会」会長だが、裏では生田機関なる組織を作り各種工作を指揮。知己の仲である白谷総理の相談役かつ裏方として暗躍

高木 惣吉(元海軍少将・予備役)
“国土戦略研究会” 「光明会」なる終戦工作機関を組織する

畠鹿《はたしか》 孝信(元内閣総理大臣)
旧雄藩藩主家現当主にて日米開戦直前の内閣総理大臣。終戦工作機関「光明会」顧問

堀部 彗山《すいざん》(日本赤旗革命軍委員長 日本東北区人民戦線議長)
戦前ソビエトに亡命していたが、ソビエト軍の日本本土侵攻とともに日本赤旗革命軍を率いて東北に上陸。仙台にて日本東北区人民戦線議長を名乗り “日本解放” を宣言する

安森 国和(日本共産党員)
別名ヤスモリスキー。収監先の那須収容所をツチヤの手引きにより脱出し仙台に来ている同志堀部の元に走る

ツチヤ(米国機関日本人諜報員)
本名、力石善之助。米国機関のスパイでSOCに協力するが、実は共産主義者

伊佐馬 忍(日本人米国移住者 民間機パイロット)
大正末期に渡米し飛行ライセンスを取得、民間機操縦士として働いていた日本人移民。故国日本で “Takeru号” による秘密飛行作戦の主任パイロットに選ばれる

スコット・オルティス(アメリカAS通信社記者)
アメリカ人従軍記者。沖縄戦終結直後の首里にいち早く入りブラウンと知り合う。その後も日本本土戦の取材を続け、九州、関東の最前線を歩き配信し続けた

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米国陸軍関係者

ダグラス・マッカーサー (連合国軍総司令官 陸軍元帥)
マリアナ前進基地でダウンフォール作戦を指揮。南九州陥落後、いよいよバターン号とともに日本を目指す

ウォルター・クルーガー(陸軍第6軍総司令官 陸軍中将)
九州侵攻オリンピック作戦における総司令官

カーチス・ルメイ(陸軍航空隊第20航空軍総司令官 陸軍少将)
超爆撃機B-29、B-36にて焦土作戦を敢行。日本人からは “鬼畜ルメイ” と渾名され恐れられる

コートニー・ホッジス(陸軍第1軍総司令官 陸軍中将)
関東侵攻コロネット作戦における総司令官

ロバート・アイケルバーガー(陸軍第8軍総司令官 陸軍中将)
コロネット作戦における神奈川湘南海岸上陸作戦指揮官

ブライアン・カーヴィル(米陸軍大将)
軍政畑出身。信州攻略スティーブン・フォスター作戦の最高指揮官

アルヴァン・ギレム(第13軍団長 陸軍中将)
米軍精鋭戦車部隊を率い関東を蹂躙。八王子立川会戦では帝国陸軍機械化部隊を撃破する

チャールズ・“チャック”・イェーガー(陸軍航空隊第201A哨戒中隊隊長 陸軍大尉)
日本上空で米軍初のジェット戦闘機実戦部隊を率い、烈神隊と死闘を演じる。ガンファイターとしてサムライである日本兵へ礼節をもって全力で挑む。戦後、初の有人音速突破に成功する

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米国海軍関係者

ウィリアム・ハルゼー(海軍太平洋艦隊第3艦隊総司令官 海軍大将)
猛将として知られる「動」の海軍提督

レイモンド・スプルーアンス(海軍太平洋艦隊第5艦隊総司令官 海軍大将)
知将として知られる「静」の海軍提督。コロネット作戦前哨戦で関東沿岸を攻撃

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ソビエト軍関係者

ロディオン・マリノフスキー (極東ソ連軍ザバイカル軍総司令官 陸軍元帥)
満州朝鮮半島全土を電光石火で手中に収めソウルに陣を張り、次なる日本本土侵攻作戦を着手する

アレクサンドル・タヴゲーネフ(ソ連軍ウザプリモルスキー軍総司令官 陸軍大将)
新再編成されたウザプリモルスキー軍200万の総司令官。シベリア鉄道を使い軍団を極東へ終結させる

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その他人物

金 成一 (朝鮮共産党総書記)

蒋 介石 (中華民国国民政府主席)

劉 沢源 (中華共産党中央革命軍事委員会主席)

厳 祥珀《げん・じょうぱく》:佐竹祥太朗(満州馬賊頭)

日本本土決戦—シミュレーション架空戦記

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昭和20年8月15日、日本は連合国に無条件降伏し第二次世界大戦は終結しました。 しかしながら、米国は日本が徹底抗戦の構えを崩さないことも当然ながら予測しており、その場合に発動すべく日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦)も準備していました。 
迎える日本軍も、本土決戦の準備と作戦(決号作戦)を整えていて、それが偶然にも両勢力が予定、分析していた上陸戦開始時期、想定主戦場が一致しており、歴史のある部分が崩れていれば日本列島を主戦場とした決戦を行っていた可能性があり “IF” 考証を中心に行ってみます。

山河残りて草木深し―日本本土決戦(41)

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国破れて山河在り、
城春にして草木深し…

古来より、国是を見失った国家政体は決して永遠には続かない。
だが、そこに聳《そび》え立つ山々、台地を往《ゆ》く大河、潮の香り、風の囁き、緑の息吹は古から変わることはない。
砦は焼け、城壁は崩れ、剣は折れても、草木はまた青く茂り、春はまた訪れる。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

—–◇————————

■山河残りて草木深し…

「此より重大放送を行います。聴取する者は皆御起立願います」

昭和21年5月10日、午後12時。
昨日から告知のあった臨時ニュースがラジオ放送を通じ日本全国に流れた。
冒頭一声の日本放送協会天沼祥吉アナウンサーに続き、内閣情報局の上小路《うえこうじ》光久局長が天皇陛下の大勅《たいしょう》「玉音」をこれよりラジオを通じ送ることを告げた。
内容は「終戦勅書」であり、国民はこの放送を聴き日本が連合国に降伏したことで本土決戦にまで至った戦争の終結を知った。
またほぼ同時刻、帝国最高戦争指導部及び参謀本部は、内外の部隊と作戦航海中の軍籍艦船に対し無条件停戦命令をあらゆる通信手段を用いて通達した。

—-

 

“終戦日” から去ること四日前の5月6日午後4時、伊佐馬忍が操縦するDC-3 Takeru号は大阪伊丹、摂津飛行場を眼下に着陸態勢に入っていた。

摂津の地は、神州帝国軍と袂を分かった椚田与一陸軍大将率いる帝国陸軍第15方面軍を主体とする日本軍勢力下であり、同方面軍は既に連合国軍に恭順の意を示していた。
飛行場には大勢の警備兵と飛行場責任者が北東方向の空から飛行場に降り立とうとしているTakeru号を見つめていた。
そしてTakeru号は、荒れ果てた滑走路に完璧な型どおり優美に着陸を果たした。

「見事な降り方だぜ。しかしアレ、日の丸着けちゃいるが海軍機じゃねぇな。ミドリが薄いぜ」

五日前に信州上空から当飛行場に飛来し、武装解除していた木場敬一海軍少尉率いる烈神隊隊員の大平文治がその光景を眺めながらそう言い、隣りに居る相棒、鳥尾嘉兵も降り立った機体が純粋な日本軍機ではないと勘ぐった。

「しかも友軍機じゃない。米国のDC-3だ。見ろ硝子窓が旅客機そのものだ。鹵獲機か?」

さらに二人を驚かせたのは、滑走路上に待機していた自動車である。

「おい、鳥尾。あのクルマ、ロールスロイスだぜ。ファ…ファントム! ファントムじゃねぁのか!これから何が始まるんだ」

根っからの “機械好き野郎” 大平は、その流麗なボディの自動車が当時の日本で数台しかない車両だと判り仰天した。
このロールスロイスは、V12気筒搭載のファンタムIII型で、日米開戦前、御料車用に英国から輸入した三台のうち一台で、宮内省車両課が戦争激化前に京都に疎開させていたものだった。
もちろん二人はDC-3に今上帝が座乗していることなど知るよしもなかったが、この目にしている光景が普通ではないことは理解できた。

そして4日後戦争は終結した。

 

停戦命令が発布されたその日、信州長野では、既に先日、「君側ノ奸《くんそくのかん》」として定義づけられた神州軍(正確には君側ノ奸は、神州政府首脳と軍指導者のみに対して)も大元帥たる聖上自ら発せられた勅令である事から、日本兵はことのほか迅速かつ平穏に武装解除に応じた。
実は信州攻略軍総司令官ブライアン・カーヴィル大将は、神州軍を最後まで抵抗していた主戦派と見なしており、日本政府の正式降伏に関わらず、徹底抗戦を予想し各部隊を要所に配置させ即応可能体勢をとらせていたが、各戦線、散発的抵抗のみで、カーヴィル自身日本国天皇の存在の大きさを改めて認識した。

神州政府首脳たちは、勅令により偽政賊徒と化した。
米軍の信州侵攻と同時に崩壊していった内閣機能と官僚機構は既に停止状態ではあったが、最後まで松代本営に残っていた閣僚や官僚たちも、陣地壕から出て連合国軍の軍門に次々と下っていった。

前内閣総理大臣白谷藤一郎は地下壕の公邸私室に中から鍵をかけこもっていた。
連合国軍MPが身柄を保護するために駆けつけたその瞬間銃声が室内から発せられ、MPがドアを壊し中に入ったときには既に白谷は絶命していた。
傍らには家族に当てたと思われる遺書らしき紙が数枚残されていた。
結局、白谷自身がクーデターにより目指そうとした理想の国家像や、日本国を焦土にし、多くの国民を犠牲にしてまでなお続けた徹底抗戦の意味は判らずじまいとなった。

黒幕として政府首脳に深く入り込んでいた報国商会会長生田隆栄は、松代に近い篠ノ井にある別邸にいるところを身柄確保された。
生田は自分は市井のいち民間人であって逮捕される理由はないとMPの米軍将校に手にしていた猟銃を向け食い下がったものの屈強な兵士により取り押さえられた。そして後日、第一級戦犯容疑者として東京に護送されることとなる。

いわゆる戦勝国による “戦犯狩り” は終戦の日から開始しされた。
なかでも彼らが一番恐れたのは、戸崎信三郎の存在だった。
連合国軍は、生田と同じく第一級戦犯容疑者としていた戸崎だったが、日本降伏時に彼の所在を確認出来ないでいた。
各諜報機関などから彼自身のこれまでの足跡や動向をつぶさに調べ上げていた連合国軍は、その機転の才を持った急進的考えと、内外に張り巡らされた人脈など危険人物であると判断し、今後の占領政策や極東での情勢に影響を与えかねない戸崎の逮捕に全力をあげ、行動を開始した。

—-

 

三ヶ月後—
昭和21年8月。福岡市博多。

ここは戦後九州で最大規模の闇市がある。
市は戦争中の物資統制下など嘘のように品物は溢れ、人も多く集まり活気に満ちあふれていた。
この街を捕虜収容所から出所し、引き上げてきた板倉弦二郞が当てもなく歩いていた。
弦二郞の妻節子と長男の清は、出征直前まで、福岡県三潴郡荒木村にある家に住んでいたのだが、村に弦二郞が戻ったき、九州戦開始直前に戦火が拡大し戦場となることが予測されたこの地で、疎開政策によって村民は各地に散ったことを知った。
住民は既に荒木村へ戻り始めていたが、妻子の姿はそこにはなく、一時身を預けていたという大牟田にある節子の叔母家に行き消息を訪ねたが、節子は女子挺身戦闘隊として北九州の軍需工場に駆り出され、清は集団疎開するため出て行きそれっきりだという。

途方に暮れ博多駅前広場の瓦礫に腰掛けていた弦次郎に、長髪の頭にハンチング帽をかぶり色眼鏡をかけたヤクザ風体の男が話しかけてきた。

「貴様。もしや…板倉か?」

「ん? 旦那は?」

男は色眼鏡を外して名乗った。

「オレだよ。同じ連隊にいた。山岸、山岸俊介だ」

「や、山岸上等兵殿かっ!」

それは紛れもなく弦二郞と宮崎からともに鹿児島に転戦し、霧島山地で生き別れとなっていた山岸俊介であった。
山岸は夜襲に向かった後、部隊とはぐれ帰還を果たすことが出来ずそのまま米海兵隊により捕縛され捕虜となったという。
昼食時だったので、二人は近くの屋台に入り闇物資の麦酒を飲み素麺をすすった。

雑談は、別れた後の話で盛り上がり。今現在の話になった。

「オレは今、流行のアレだ。大声じゃ言えんが闇物資の流しをやってる。お前はどうなんだ?」

と山岸が目の前の麦酒瓶を見つめながら口走った。

「元々和菓子職人なんで、入営前と同じですよ」

弦二郞はもちろんアテなどなかった。
逆に山岸は羽振りが良さそうで、昼食代として米軍発行の軍票を屋台の主人に手渡した。

「はははそうか…まぁ気長に行こうぜ。日本は俺たちがしょって立たねぇとなんねえ。」

そう言って山岸は、連絡先を書いた手書きの名刺を弦二郞に渡し、闇市の雑踏に去って行った。

しばらく市を回っていると “しらたま・ようかん” とのれんに書かれた文字が飛び込んできた。
甘味処屋のようで、興味本位から中の様子をうかがってみた。

中には割烹着姿の若い女主人と丸坊主の幼児が傍らにいた。
その女主人が弦二郞の視線に気がつき、表に顔を向けた。

「いらっしゃい…」

弦二郞は兵隊帽を脱いだ。

「あ、アンダ…アンダかっ! 弦二郞さんかい!」

「お、オマエは! 節子… そうだ。弦二郞だ!」

その甘味屋の若い女主人は弦二郞の妻節子だった。
傍らには丸坊主は、歩けるほど成長していた一子、清だった。

「そこにおるのは清か! キヨ、オマエもおおきゅうなったなぁ!」

突然の事と弦二郞出征当時の記憶がない清は、事態に理解できず一人キョトンとしてしていた。
弦二郞はそんなことお構いなく清を抱きかかえ、妻の節子もただただ涙するばかりだった。

—-

 

かくして日本の新しい夜は明けた。
だた日本を取り巻く環境は厳しく、それはまた前途多難な船出でもあった。


日本が決号作戦、すなわち本土決戦を選択した事による代償は計り知れず、戦後、旧大日本帝国は分割され、樺太全島および歯舞、国後、択捉を含めた千島列島全領並びに北海道はソビエト連邦がむこう50年間の租借権を有し、A.A.ライン(吾野阿武隈線)以北が、堀部彗山人民戦線議長を中心とした全体国家「日本社会主義人民共和国」、南が「日本国」、そして沖縄県が「琉球国」となった。

また、大日本帝国が皇土としていた台湾は大戦末期に連合国軍として中華民国軍が侵攻、結果同国が旧清朝継承国家として保有し、朝鮮は朝鮮共産党金成一総書記が朝鮮全土の支配権を掌握、朝鮮社会主義人民共和国として独立した。
旧満州国は戦後に中華民国国民政府の蒋介石主席と共産党(中華革命政権)の劉沢源委員長が主導権を巡って、荒廃するまで国土を二分し戦った国共内戦の結果、革命政権が同地に敗走、人民中華共和国が建国されるに至った。

これら東アジア情勢により、米国を中心とした西側同盟の “防共ライン” が日本国土に引かれ、それは新たな火種を生むことに間違えなかった。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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山河残りて草木深し―日本本土決戦(40)

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神州帝国軍は、善光寺に本陣を構え残存軍を長野市域に集結させていた。その総数は約1万600の歩兵部隊と第1、第2近衛戦車大隊合計21輌の一式中戦車と九七式中戦車車及び数十門の野戦砲類に過ぎず、圧倒的物量で進撃してきた連合国軍と対峙するには余りに非力であった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

—–◇————————

■昭和大乱 ―信濃京

昭和21年5月6日早朝、北信地方は昨日から降り続けた雨は止んでいた。

“サツキバレ作戦” を決行中のウィリアム・スラッテリー大尉以下、米軍特務部隊SOCは2台のジープと偵察用オートバイ1台を使い、神州軍松代本営に辿り着いていた。
この松代地区には神州軍の皇宮警察隊と禁裏守衛隊あわせて1500名ほどが当地防衛にあたっていたものの、西進してくる米陸軍第4歩兵師団第12連隊との交戦を避けようとしたのかSOCが来たとき姿はなく、本営は蛻《もぬけ》の殻状態だった。
ここを中心に半径1キロ以内の松代地区に総理大臣公邸を含めた中央政庁と宮城もあり、SOCは急ぎ宮城に向かった。

皇城内には、戦闘の意思を示していない少数の警官と文官のみがおり、彼らに主上の所在を確認したところ、既に禁裏から離れていることを知った。

アオキは焦った。

「加治木《ジェネラル》、早すぎる。キャプテンウィル!急いで例の日本軍飛行場に向かおう」

「エドどうした?」

「同調したジェネラルが我らを待たずして昨夜先発したようだ」

スラッテリーはすぐさま追う指示を出した。

「クソっ、全員ジープ《クルマ》に乗れ!加治木を追うぞ」

そのとき “コーチ” ことブラウン軍曹が機転を効かせた。

「ウィル!隊員満載のジープじゃ重く遅い。コイツで先行する。エド後ろに乗って向かった先を指示しろっ!」

「判ったコーチ!」

ブラウンは特殊作戦用に改造したオートバイ《インディアン741B》に跨がり、後ろにアオキを乗せ全開で飛ばし、一行の後を追った。

 

この時、加治木たちは、千曲川東岸上高井郡川田村まで辿り着いていた。目的地、神州航空基地までわずか3キロの地点である。
神州航空基地は松岡地区にあり、そこへ行くには千曲川と犀川を渡河しなくてはならない。
両河川に掛かる橋梁は、日本軍によってことごとく爆破され落橋していたが、唯一、両河川が合流する牛島・大豆島地区に架けられ、戦車が渡れる幅と強度を備えている落合橋《おちあいばし》のみを作戦上残置していた。
とうぜん落合橋には神州軍による検問と防衛線が張られてはいるが総隊軍司令官特権により通過は難しくはない。
しかしながら、昨日5日から米陸軍第4歩兵師団先遣部隊と同第101空挺師団による侵攻で開始された善光寺平での地上戦により一行は身動きできなくなっていた。
事が事だけに加治木は友軍であろうとも自分たちが “御料車” であるなど言えるはずもなく、にっちもさっちも行かなかった。

ブラウンの運転するインディアン741Bは、泥濘《ぬかるみ》に出来た真新しい轍を頼りに北西方向へ飛ばし、その遙か後方を11名の隊員を乗せた2台のジープが追った。
長い坂を下り、果樹畑が点在する辺りまで来た頃、砲声と銃声音がのどかな田園に大きく響き渡り、それは善光寺平一帯で繰り広げられる地上攻防戦の激しさを物語っていた。

「エド!いたぞっ! あのクルマじゃないか?」

ブラウンは果樹園の中に止まっている2台のトヨダAAを視認した。
同時に近くの樹木から5、6名の武装集団が姿を現し一行に向かっていることも確認できた。

「まずい!クレージードックスだっ」

それは神州軍秘密警察隊の一隊でだった。
長野攻防戦が始まってから、敵味方であろうが区別なく殺戮を繰り返してきた彼らには、もはや正義も秩序もなく、単なる武装殺人団と化しており、たとえ民間人だとしても処刑対象であった。彼らの存在を知っていた連合国軍将兵たちも “クレージードックス” と称し常に警戒していた。

「よし奴らに突進する。エド掃討しろっ」

「了解!」

ブラウンはオートバイを秘密警察隊真っ正面に向け突っ走り、彼らの目前で急ターンし停車した。
唖然とする秘密警察隊を尻目にブラウンは手榴弾を投げ、次いでアオキがサブマシンガンを放ち、敵に反撃の余裕を与える前に全員倒した。

ブラウンとアオキはオートバイから飛び降り、一行の車まで走った。

「君たちが例の米軍特任隊か?」

加治木が英語でアオキに問いかけ、アオキは日本語で加治木に返答した。

「ジェネラル。その通りです。私は米国海軍情報局のエドワード・アオキ少尉です。これより聖上は我らがお守りします」

しばらくしてスラッテリーたち2台のジープも追いついた。

「フーッ、さすがだなコーチは」

スラッテリーは近くに横たわる秘密警察隊の屍を見て、ブラウンの機転を効かせた行動のおかげで事なきを得たことを知った。

「よしコーチとエドはジェネラル一行に同行しろ。もう一人、サイお前も日本車に乗れ。俺たちは後を追う。それからトニー、バイクで斥候だ」

サイモン・キャンベル伍長が先導車に同乗し、ブラウンとアオキは、加治木大将と天皇と皇后の乗る後方車両に乗り、脱帽し最敬礼を行い、天皇と皇后と対面する形で床に伏せた。
そして一行は改めて神州航空基地に向け出発した。

落合橋の手前まで辿り着きいったん停車し、先に斥候としてバイクで橋の偵察を行った隊員の報告をスラッテリーは受けた。
報告から橋梁付近の日本軍部隊は戦闘に備え、工兵部隊がいつでも落橋できるよう爆薬装填をしている最中で橋梁守備部隊は20名以上いる事が判った。

「一戦交えるのは得策ではないな。ここはジェネラルに芝居をしてもらうか…」

敵の数、橋梁に爆薬装填という状況から、戦闘プロ集団であるSOCをもってしても苦戦を強いられることは必須で、例え勝っても時間的ロスになる。
そのためスラッテリーは加治木が当初予定していた通り、“総隊軍司令官特権” をもってして正々堂々通過させる事にした。
もちろんこの場合、敵である米軍車両は通過できない。

「一か八かだ。ジェネラル。ここがアンタの花道だ」

そうスラッテリーは加治木に言い残し、後方に身を隠したジープから攻撃態勢をとりつつ一行の通過を見守ることとした。
ブラウンとアオキ、キャンベル伍長は引き続き同行することとなり、武器弾薬とショルダータイプの米軍携帯無線機などを先導車に詰め込んだ。

2台のトヨダAAはゆっくりと落合橋に向かった。
橋梁守備隊の検問所まで進み、加治木が車外に出て、天皇皇后が同行していることは隠しつつ「とある皇族要人の通過」であると事情説明を行った。
ブラウンとアオキは身を隠した車内から緊張し様子をうかがった。

5分後、加治木が戻ってきた。

「アオキ君。問題は無い」

そう加治木が言った。
この時たまたま牛島地区における守備隊長が加治木と昵懇の陸軍少佐であったため、臨検されることもなく、ほぼフリーパスで通過可能となった。
2台はゆっくりと落合橋を渡り対岸に走り抜けていった。

それをカールツァイスの双眼鏡を通し観察していたスラッテリーは一安心し、ここで一行の長旅の安全を祈った。

—-

 

今日未明に連合国合同軍厚木基地から飛び立った日の丸をマーキングし日本軍機に偽装したDC-3 “Takeru号” は巡航で長野上空を飛行していた。
機体識別ナンバーは既に連合国軍に告知済みなので撃墜される恐れは少なかったが、機長である伊佐馬忍《いさま・しのぶ》は、周囲警戒に余念がなかった。
伊佐馬は航空基地の位置を視認してはいたが未だアオキたち地上支援部隊からの連絡がなく長野上空を目立たないようTakeru号を旋回飛行させていた。

「これで6周目だ。おい、スコット中尉。ゲージは」

伊佐馬は横に座る副機長のスコット中尉に燃料残量を確認させた。

「残り…400ガロン」

「あと約10周が限界だな。エド、早くしろっ」

 

午後2時、加治木たち一行の2台のトヨダAAは神州航空基地にたどり着いた。
基地の入り口には神州軍の警備兵がおり、制止させられた。
ブラウンとアオキは拳銃を手にし荷物に紛れ身を隠した。

加治木は総隊軍司令部の極秘任務であることを警備兵に告げ、直属の上官をここへ呼び出させた。
そして上官である陸軍中尉が現れ加治木は、無言で御料車に御召しているのが聖上陛下であることを示した。
陸軍中尉はあまりのことに唖然としながらも一行を先に通した。

滑走路が目前に見えてきた。
アオキはショルダー型無線機のスイッチを入れ、米海軍用暗号チャンネルでTakeru号に向け呼びかけた。

「ウミガラスよりムクドリへ、幌馬車はシエラネバダは越えた。繰り返す…」

すぐさま上空を旋回中のTakeru号がアオキの放った無線をキャッチした。

「ヘイ、シノブ! 来たぜウミガラスだ!」

副機長スコット中尉が興奮し伊佐馬そう言い、アオキに無線返答した。

「こちらムクドリ。ウミガラス諒解した。幌馬車の荷を下ろせ。OVER!」

伊佐馬はTakeru号の機体高度を落とし、神州航空基地への着陸コースに進路変更した。

「よし!着陸態勢に入る。さて、Takeru号…日本軍にバレるなよ」

加治木たち一行は滑走路付近に車を止めていた。
アオキが窓から上空を見てTakeru号を確認した。

「コーチ! 来たぞ! Takeru号だ!」

伊佐馬はTakeru号を爆撃で多数の穴の開いた神州航空基地の滑走路に見事に着陸させた。
機体から飛び降りた伊佐馬は、アオキに日本語で叫んだ。

「まずは御二人方を奥の座席へ!」

「よし忍、判った! コーチ!」

「エド、陛下とともに早く行け、オレとサイでカバーする!」

後方の日本軍施設からは、さっき門前にいた陸軍中尉が数名の武装した陸軍兵を伴い着陸したTakeru号に小走りで向かってきた。
ブラウンとキャンベルはサブマシンガンを構えとっさの事態に備え安全を確保した。
この一行とDC-3のクルーの中に米国人が居ることが知れたらただではすまないことは予測できた。

そして天皇皇后と数名の侍従はアオキの導きでTakeru号に移り、後を追うようにブラウンとキャンベルもTakeru号のハシゴを駆け上った。
滑走路上にはまだ加治木が残っていた。

アオキが機内から叫んだ。

「加治木さんアンタも来い! 脱出しろ」

「アオキ君。私にはまだやるべきことがあるのだ。後はよろしく頼む。くれぐれも陛下御身に何事も無きようにな」

そう加治木は言い残すと、再び乗ってきたトヨダAAの位置まで下がっていった。

アオキはそれ以上何も言わず、加治木に敬礼しDC-3のドアを閉めた。
同時にTakeru号はゆっくり動き180度回頭し、降りてきた同じ滑走路上に離陸体勢をとった。

「エド、いいな。行くぞ!」

操縦席から伊佐馬が客室のアオキに合図を送り、Takeru号は飛び立った。

 

伊佐馬は機体進路を西に向けた。

「エド、輸送機は何処行くんだ」

「大阪伊丹だ。そして聖上の向かう先は…京都皇宮」

これこそがアオキが立案した一大計画の全貌であった。
大日本帝国天皇が、古の頃よりの皇城である京都皇宮、すなわち京都御所へ帰京を果たし、そこで宣旨《せんじ》、「君側ノ奸《くんそくのかん》ノ排除」と「非常ノ措置ヲ以テ時局ヺ収拾セム」という勅許をもって大局を偃武《えんぶ》する。もちろん現憲法下で行われることが望ましく、先に幽閉先から脱出した鈴村幾太郎第42代内閣総理大臣を正式な内閣首班とした帝国政府として「聖断」を得る形とする。

鈴村は既に京都におり、臨時帝国政府内閣(正規継承内閣)の組閣準備を行っている。
先の勅許草稿は古尾勝吉前侍従長の手で進められ、停戦手順は臨時政府外務大臣として内定している袋内太郎元駐英大使の手で準備されていた。

また、“勅許” は帝の入京後に特設されたスタジオでレコード録音(後に玉音盤と一般的に呼称される)され、即米軍機により東京に空輸され、日本放送協会の愛宕山にある東京放送局より内外に向けて発信する手筈だった。

 

歴史は急加速していた。
昭和21年5月8日、未だ長野では神州帝国軍が連合国軍に抵抗戦を続け、白谷藤一郎神州政府内閣総理大臣も存命ではあったが、京都において鈴村幾太郎内閣総理大臣が宣旨を受け改めて大日本帝国政府首班に返り咲いた。
そして同時に、神州軍に組して戦った軍人や軍属、民間人に至るまで戦闘を停止するならば、罪を問わないどころか祖国の山河を守るため最後まで戦ったことへの賞賛の辞を述べた。

“終戦” へ舞台がここに整ったのである。

 

「クソっ、鈴村めっ」

三田村淳吉が舌打ちした。
飛騨高山のアジトまで落ち延びていた戸崎信三郎ら神州救國会一派と良松宮蓮彦王《よしまつのみや・はすひこおう》中将はこの地で情報を得ていた。
戸崎という男は用心深くそして抜け目のない性格で、本土決戦開始とともに日本各地に隠れ屋を作ったり支援者を配置し、来たるべきその日に備えていた。

良松宮が戸崎にたずねた。

「戸崎、本当に大陸に渡るつもりか?」

気性が荒く、“武闘派宮様” として知られていた良松宮だが不安は隠せなかった。

「然り。満州馬賊の厳祥珀《げん・じょうぱく》らの協力のもと大陸で朝廷並びに亡命政府を旗揚げし聖戦を続行します。もちろん米国傀儡となるであろう日本偽政府に宣戦布告も辞さないつもりです」

「しかしな、例え皇族であっても自分は帝の臣下に変わりはない」

「尤もですな。ただ殿下の出自は、七辻宮家、統松《むねまつ》親王まで辿れます。正統な血統であらされる殿下こそ、敗北し米国州と化すであろうこの日本を北辺の地から糾《ただ》す方なのです」

戸崎信三郎は正論らしい事を述べてはいたが、眼中に良松宮はなく、宮家当主であろうが彼の単なる野望の駒に過ぎなかった。

 

なお、神州航空基地の憲兵隊により身柄を抑えられていた総隊軍司令官加治木亘大将は、アオキたちが飛び立った日の夜、終戦を待たずして靴下の中に隠し持っていた小型拳銃を使い自決を図り自らの命を絶っていた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(41)】