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山河残りて草木深し―日本本土決戦(34)

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ソビエト赤軍は、北緯37度付近、日本海阿賀野川河口から太平洋夏井川河口を結ぶ線上まで南下した段階で侵攻をいったん停止した。また米軍を中心とした連合国軍は、九州大半と関東南部、帝都東京を完全制圧した時点で戦線を膠着させ、主な占領地に軍政を敷いて統治下に置き、着実に極東における支配体制を固めていった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■オアフ協定

武士の世が黒船来航によって幕を閉じ、四面鎖された海原に文字通り漕ぎ出した近代日本。
昭和20年8月、権力を掌握した超国家主義者の集団が、情勢を見据えず盲目的かつ狂信的に国を先導したことで戦争は継続され結果発生に至った本土戦役は、明治維新以来築き上げた日本の国力や富と人知そして国家根幹そのものが水泡と化していった。
ただそれが正しいか正しくないかは後世歴史が評価することであって、本土戦役が行われてる最中、人々はただ自分が置かれた立場ですべく事を精一杯行い、守るべき者と古《いにしえ》からそこにある山河と海を次代に残すため闘った。

例え戦禍により築き上げた城が焼け陥ちても、人の心中に築いた石垣は崩れることはなく、草木もまた茂る—-


昭和21(1946)年4月初旬における、対日宣戦布告国の中で日本本土戦線に派兵している連合国は以下の通りである。

●大規模部隊・海軍艦隊派遣国

アメリカ合衆国
イギリス連合王国
英連邦加盟国
・カナダ
・オーストラリア(日本本土以外に南洋諸島にも派兵)
・ニュージーランド(〃)
ソビエト連邦

●大隊未満規模・小数艦艇部隊派遣国

フランス共和国臨時政府(ハノイ駐留第5外人歩兵連隊を関東戦線に派兵)
メキシコ合衆国(太平洋艦隊駆逐艦部隊派遣)
オランダ国(インドネシア方面艦隊派遣)

●視察団・武官派遣

中華民国(国民党政府)
ドミニカ共和国
パナマ共和国
コロンビア共和国
ブラジル連邦
英連邦・南アフリカ共和国
その他

●米英非公認参戦国と旧大日本帝国領

[非公認]朝鮮社会主義人民共和国(朝鮮全土制圧)
[非公認]モンゴル人民共和国(満州へ派兵)
[非公認]中華共産党中央革命軍(満州へ派兵)
中華民国(台湾へ侵攻)

神州大日本帝国政府は、3月22日、国際上首都のままであった帝都東京を連合国軍に占領されたことで、中央政府機能を極秘裏(米国は掴んでいるが)に信州へ遷都していることを公表せねばならず、改めて内外に公にし、長野を信濃京として宣下(形式上)した。
一方軍事面を見ると、開戦時の面影はどこにもなく、昨秋から始まった本土戦役により戦力は斬減し、兵器弾薬、燃料、食糧は生産工場施設の被災と戦火により農耕地の大半が荒廃し備蓄はなく、国土分断によるネットワーク不全は軍の指揮命令系統や規律を乱し統制は取れず(これは日本のあらゆる組織系統にいえた)惨憺たるものであった。

ここで昭和21(1946)年4月20日時点における日本の軍事、戦線状況を詳報する。
帝都周囲守備の第12方面軍と東北地方守備の第11方面軍は、それぞれ連合国軍・ソ連軍と死闘を演じ、大半の戦力を失った。残存兵力は、国民根こそぎ動員によって得られた兵員併せて22万と見積もられ、これに温存していた中京地区第13方面軍を加え54万4300の総兵力を信濃京周囲に集結配置し「神州近衛軍」と称する軍に改編。王城である信州へ峠を越えて迫り来る連合国軍に対し、最後の決戦とも言うべく籠城戦の準備を進めた。

沖縄戦に続いて本土に上陸された九州では内陸部での戦闘が開始され半年が経過し、局地戦やゲリラ戦が散発的に行われている程度となり、既に戦線は崩壊していた。
米英軍が福岡県南境以北へ積極的進出をしていないため、形式上第16方面軍第56軍が北部九州を抑えていたものの、本州とは交通途絶され孤立無援状態で、戦闘力と呼べるものはなく組織的壊滅状態であった。

近畿西日本防衛の第15方面軍は、本時点で9個師団及び3個旅団約13万3700(義勇隊など含む)の兵力が温存され、同軍は中国四国地方、近畿北部の防衛を放棄し、全軍を京阪神地区に集中させ一大決戦に備えた。
しかし現地軍指揮官と参謀たちは、松代本営の意思決定とは異なる独自作戦や人事、部隊配置を立案し、既に一部は実行実施していた。これは思惑あってのことだったが、軍令や統帥を完全に無視した “反逆” ともいえ、帝国陸軍史上、西南戦争以外にない事件で、憲法下におけても重大な過失となりうるが、神州帝国政府が軍のコントロール機能を失っていることを意味していた。

海軍は稼働艦艇として、もはや数隻の潜水艦(昨夏から任務作戦中のイ400潜など外洋にて現存している艦艇もあったが内地への帰投機会は失われていた)や海防艦、特殊潜航艇、回天・震洋などが残されたのみで、攻撃隊として特攻部隊が瀬戸内海の入り組んだ島々に分散配置されてはいるが、敵水上部隊が瀬戸内海に来襲する気配はなく遊兵化していた。
また陸海軍の航空部隊も現存はしていたものの、現有戦闘機部隊は長野飛行場など信州地区に集中配備され、ごく僅か旧式機が近畿方面の防空任務を担当していた。ただし肝心な航空燃料は代替燃料ですらどこの基地も例外なく枯渇し、出撃はかなわなかった。特攻機も同じで、飛ばすだけの燃料は満たせず、エンジンを積んでいない木製のグライダー式特攻機「神龍」など “燃料不要兵器”(ただ出撃時には運動エネルギーが必要で、燃料を用いた自動車が牽引し滑空する)が数十機生産され実戦配備されていたが用兵を見いだせず廃棄状態となっていた。なお米軍による都市焦土爆撃作戦は既に実施されていない。

このように疲弊する各戦線の日本軍将兵が消耗し戦意を失っていくなか、第5方面軍第7師団残存部隊のみは逆に孤立無援の北海道内で十勝地方を拠点としソ連軍にゲリラ戦で抵抗を続けていた。彼らは「白樺軍」と自称し、後に日本が連合国に降伏した後も厳冬の北海道を生き抜き、パルチザンとして道内でソ連軍と戦い続け、ソビエトの公式記録では1947年9月に赤軍第4487大隊の掃討作戦で然別《しかりべつ》山中にて壊滅したことになっているが、実際には子々孫々道内の反ソ勢力として志は長く受け継がれた。

 

日本に侵攻中の米ソ両軍は、ともに戦略的目標の大半が達成に至っていた。
米ソは連合国同士ではあるが、日本本土に侵攻した軍同士の協力関係や作戦同調は皆無で、思想や理念が異なる両軍はさもすれば日本列島内で衝突する可能性すらあった。そもそも連合国とは国際連盟とは無関係で、反ファシズムおよび枢軸国と敵対する勢力が集合し自然発生的にできた緩やかな連合体で、その首座につくのは必然的に、戦争貢献度が高く人的物質的に最大規模を有する国家となり、それは言わずと知れたアメリカ合衆国である。

連合国は、まだ日本政府が停戦降伏をしていないながらも、今後の日本の占領政策などを話し合うべく、事務レベルでの折衝会議をいくつも重ねた後、改めて一つの暫定協定を結んだ。
その協定調印は、米ソの他、中華民国(国民党政府)と仏、蘭、加、豪、新西の代表も加わり46年4月22日にハワイ・オアフ島真珠湾に2月の関東沿岸砲撃作戦から帰投し停泊中の戦艦ウィスコンシン艦上で行われたため、「オアフ協定」といい、要約した内容は日本国(領)内における連合国の分割統治暫定協定である。

協定の申し入れは、ワシリエビッチ作戦発動直後にソビエト政府の申し入れより始まった。
ソ連軍日本本土侵攻は、日露戦役敗退の怨恨が、後に起きたハルハ河紛争(ノモンハン事件)での勝利のみでは飽き足らないスターリン個人の私的感情による部分が少なくなかったが、ソビエト連邦の大露西亜ピョートル大帝代からの南侵政策に沿った悲願で、北海道以北の日本領租借権と本州東北地方に社会主義国家を建設することがスターリン最大の目的なので、有利な現戦況下でアメリカとの交渉を拙速に望んだ。
一方アメリカも、既に軍事行動により北日本の大半を制圧している(実際には主要都市部のみで、協定締結時もまだ日本軍と局地戦を各地で展開していた)ソ連軍に対し、これ以上の南侵阻止とオリンピック作戦につづく信州攻略と日本政府崩壊を目的とするスティーブン・フォスター作戦の発動を前にして、是が非でもここで暫定協定を結んでおきたい思惑があった。
本協定で米ソは、両者がA.A.ライン(Agano―Abukuma Line)と呼称する、日本海阿賀野川口から猪苗代湖北岸を通り太平洋夏井川河口まで結ぶ線を南北に分断し、北側(樺太全土と千島全島含む)がソビエト連邦、南側(琉球列島、伊豆諸島以南~南洋群島含む)が米英連合、そして台湾が中華民国、インドシナがフランス、他日本に占領された地区をオランダなど旧宗主国が主権を改めて取り戻すことが確約された。なお満州朝鮮の権益は実効支配と勢力圏下に抑えていたソビエトが強硬にそれぞれの独立主権国家承認を迫ったが、本協定では留意された。

この「オアフ協定」が第二次世界大戦終結後に引かれたアジア地域での新たな国境線の基礎となり、それは同時に米ソ両陣営が対立する布石にも繋がって、自身たちが火種を点《とも》してしまったとも言えた。

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厚木基地の格納庫内に一機の濃緑色で日の丸をマーキングしたDC-3が駐機していた。
この機体は、第5空軍第374空輸航空団所属機でれっきとした米陸軍航空隊の輸送機であったが、これから実施される特殊任務に使用されるため、日本軍機色に塗り替えられていた。
帝国海軍零式輸送機を模したこのDC-3は、“Takeru号” と命名され、名付け親である機長の名は、アメリカに移民した日系一世の民間人パイロットで伊佐馬忍《いさま・しのぶ》といった。

明治末期、神戸港に捨てられ孤《みなしご》だった伊佐馬忍は、養護先である尼崎の孤児院、伊佐馬教会で暮らしているところを堺の貿易商、岡嶌恭一の目にとまり同家に引き取られた。
大正13年、忍は岡嶌家三男が、家業の米国桑港《サンフランシスコ》支店長として赴任するにあたり、付き人として共に渡米。サンフランシスコで暮らすが、下男同然の暮らしに嫌気がさし岡嶌家を抜け出してアメリカの自由移民となった。
その後彼は、あらゆる差別と闘いつつ働きながら勉学に励み、努力の末、外国籍の日系人としては希有な職種である航空機操縦士のライセンスを並外れた操縦技量を見込まれ半ば非合法に近い形で取得し、民間測量機の操縦や曲芸飛行を生活の糧とした。いつしか自他共に認める飛行操縦の技能を有するになったが、折しも日米開戦直後、いわゆる “大統領令9066号” により突如、職とフライトライセンスを剥奪されツールレイク収容所に強制移住させられた。

三年が経ち、連邦保安官の一人が所内の自動車修理工場に勤務する彼の経歴を調べるうちに、航空操縦士である彼の異彩に気づき、たまたま知り合いだった海軍情報局員にこの話をして、伊佐馬をサンティアゴの海軍情報部に呼び寄せそこで同じ日系人であるエドワード・アオキに引き合わせた。
アオキは同じ日系人である彼が、航空機の操縦技術に長けていることに着目し、自分が立案している日本での作戦において、それが実行された時に必要となる主任飛行士をして欲しいと口説いた。

はじめは故国と闘うことに強い抵抗を感じていた伊佐馬だったが、二世でありアメリカ国籍を持ってはいたが、伊佐馬と同じく米国で差別を受け、中西部の砂漠にある収容所に押し込められながらも、不屈の精神力により海軍士官の道を勝ち取ったアオキの人柄と熱意にうたれ、戦闘攻撃用航空機でないことを条件に、パイロットとして故国の空を飛ぶ決意をした。

「オレは故国《日本》を裏切ったわけじゃないし米国の犬っころになった訳でもない。この作戦が故国への恩返しになると思ったからだ」

そうアオキに言って了承し、半年たったいま、作戦内容と彼が運ぶ “人物” を知った上で厚木基地降り立ち、彼が操縦するDC-3 Takeru号とともに作戦決行の日を待っていた。

4月30日、伊佐馬が関わる極秘飛行の成否が大局を左右する「スティーブン・フォスター作戦」がマッカーサー元帥の命令により発動した。
本作戦は、大日本帝国最後の牙城となっている信州を攻略し、日本政府を完膚なきまでに叩きのめすのが目的であり、作戦名の由来から来る情緒的古きアメリカの郷愁歌のイメージとフォスターの人生を見れば命名は自虐的ともとれるが、いずれにせよ日本本土侵攻作戦、ダウンフォール作戦は最終段間に入り、王城守護軍との闘いが始まろうとしていた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(35)】