現在のアメリカ合衆国、言わずとしれたこの超大国は工業大国であり、また同時に海軍王国でもある。
しかしながらこの歴史的にも若い国家は、工業政策こそ独立直後から拡充を推し進めてきたが、その海軍力が充実しはじめたのは19世紀末から20世紀初頭にかけてで、こと米西戦争(1898(明治31)年)において、アメリカ大陸周囲の大西洋と太平洋に展開していたスペイン艦隊をアメリカ海軍が駆逐し勝利を得た後のことである。
そのアメリカが、工業力と海軍力を前面に出し底知れぬ力を発揮させたのが第二次世界大戦で、交戦国はその圧倒的物量の前に苦戦を強いられた。
強大な海軍力、すなわちそれはアグレッシブな造船力を意味し、第二次世界大戦中に日本とアメリカが建造(竣航させた)した主要戦闘艦数を比較して見ると、
と数字だけを見てもその実力をうかがい知れる。
そしてアメリカはこれら戦闘艦以外に、「リバティー型貨物船:liberty ship」(以下「リバティー船」)と呼ばれる戦時設計輸送船も大量建造し、戦地や連合国陣営拠点への任務航海を行い最大効果で運用した。
1939(昭和14)年9月1日、第二次世界大戦がナチスドイツ軍のポーランド侵攻により勃発し、直後から始まった破竹の電撃戦を展開する同軍の前に連合国陣営は初戦で追い詰められ、翌40年5月から6月にかけて起きた “ダンケルクの戦い” は連合国軍の大敗北となり、結果ヨーロッパ大陸の連合国諸国はすべてナチスドイツに降伏、イギリスは他の亡命政府と共に英仏海峡を隔て枢軸国と戦うこととなった。
日本と同じく、本国が島国であるイギリスは古くから海上交通が発達し、大戦勃発時には2100万総トン、延べ4千隻もの商船を保有する世界随一の海運国家であった。
しかし、「アセニア事件」 1) をきっかけに商船への攻撃を禁じていた「ハーグ協定」を破棄したカール・デーニッツ提督率いるドイツ潜水艦部隊による無制限攻撃を受け、開戦から僅か一年で310万総トンもの商船を失った。
その後も供給をはるかに上回る消耗を続け、イギリス当局は打開策として自国内の造船所を拡充し、急造商船の建造を急がせたものの自国内の建造能力では追いつけなかった 2) 。
そのためイギリスは、盟友国アメリカから輸送船の貸与を受けることを望んだが、開戦当初のアメリカは枢軸国と敵対してない中立国であり、積極的な軍事援助はドイツとの交戦へと発展しかねず表面上は消極的な姿勢を取っていた。
とはいうものの、欧州での戦争は既に対岸の火事では済まない情勢下にあり、ドイツのみならず日本との緊張軋轢も増すなか、水面下では欧州戦線に投入すべく戦時急造船の建造を進めていた(アメリカが連合国に軍事援助するレンド・リース法は、参戦に先立つ1941年3月に成立)。
そして1941年12月の日本との交戦を皮切りにアメリカが正式に第二次世界大戦に参戦し、同時に戦時急造船の建造も本格的に開始した。
この急造船の代表的な型が「リバティー船」と呼ばれる7000総トンの標準設計急造船で、建造にはブロック工法と電気溶接を駆使し、驚異的なスピード 3) により続々と建造していきイギリスなど欧州や太平洋に送り出された。
「リバティー船」の主機関は、新式高性能タービンの搭載は見送られ、従来からある2500馬力レシプロ式機関を搭載したため、低速(航海速力11ノット)だったが、こなれた技術の主機関は古参船員などに好評でメンテナンス性や実用性に優れており、選択は理にかなっていた。
一方で当初の評価は、日本の「第二次戦時標準船」と同じく粗製濫造の代表選手のように酷評され、事実竣役初期は海難事故が絶えなかったが(しかし日本の二次船のように二重底や曲線型船体の廃止などはしていない)、欠陥は常に技術者へフィードバックされ、次第に完成度は上がっていった。
完成した「リバティー船」は順次投入され、欧州戦線では任務輸送の最大の脅威とされた敵Uボート隊による群狼戦術には随伴の護衛空母、護衛駆逐艦で対抗し弱点であった低速航行を克服し、その後の連合軍による大反撃に多大な貢献をした(ただしイギリスにおける商船損失は、1943年(年間損失:781万総トン)あたりまで減少することはなかった)。
太平洋戦線においては、戦争後期以降に占領した環礁泊地やフィリピン戦線などに最大量投入され、その絶え間ない物資供給の前に日本軍は各地で次第に追い詰められていった。
なお、太平洋戦線に投入された「リバティー船」は欧州向けとは武装面で若干の違いが見られる。
基本火器は、船首3インチ単装砲1門と船尾5インチ単装砲1門それに20ミリ対空機関砲8門でしたが、日本軍の海上での波状航空攻撃(ことレイテ沖海戦(44年10月)後の特攻機対策とされる)に備え、対空機関砲を4~5門増設してた。
戦争はある意味、いかに物資を大量にそして早く正確に運ぶかがカギであり、大量建造され世界中にあらゆる物資を運搬する「リバティー船」は連合国を勝利に運び上げた影の功労者といっても過言ではない。
アメリカはこの「リバティー船」だけで 4) 、戦時中2712隻(1810万総トン)建造し、235隻が敵の攻撃や事故などで損失した。
戦後稼働可能とされた「リバティー船」は1700隻ほどで、そのすべては連邦政府籍の官船であったため、他の海軍余剰艦艇と共にハドソン川などに設けられた淡水集積地に係留されたのち、世界各国に売却されていった。
購入した国々(日本の海運会社は購入していない)は、急造船であった「リバティー船」を独自に補強し耐用年数をあげその後も長い期間使い続けたという。大量購入をしたギリシアやパナマなどは、戦後に海運国家として名を馳せ、「リバティー船」のもたらした効果が絶大であったことを物語っている。
1960年代にいたってなお、アメリカ国内には約800隻(航行不可能船含む)の「リバティー船」が存在していたが、これらも世界各国へスクラップとして売却された。
現在、ジェレミア・オブライエン号(SS Jeremiah O’Brien)とジョン・W・ブラウン号(SS John W Brown)が記念船として保存されていて、航行すら可能である。
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1) 第二次世界大戦開戦直後1939年9月3日、グラスゴーからニューヨークに向かっていたイギリス客船アセニア号〔(SS Athenia ):1万3465総トン〕がアイルランド島西方沖を航行中、同海域を哨戒中のドイツ潜水艦U30により雷撃され沈没し112名(うち28名がアメリカ人)の乗員乗客が死亡した事件。U30艦長フリッツ・ユリウス・レンプ大尉は、アセニア号が無灯火でジグザグ航法をとっていたのを敵仮想巡洋艦と判断し攻撃をしたと上層部に状況説明した。事件は結果的にドイツのハーグ協定廃棄に繋がり、以後ドイツ潜水艦部隊は敵対国と中立国の商船に対し無警告攻撃を行うようになった。
2) 第二次世界大戦中のイギリスにおける戦時急造船は「エンパイア型」(7280総トン)と「フォート型」(7140総トン)の二船種あった。どちらもレシプロ式機関を搭載し他の英連邦国にある造船所でも建造を進め、「エンパイア型」290隻、「フォート型」60隻が大戦中に建造された。
3) 1942年時点で起工から進水まで平均して2ヶ月ほど(後に同じ2ヶ月で艤装完了までスピードが上がった)。ちなみにロバート・E・ピアリー号(SS Robert E Peary)に至っては、起工から僅か7日で進水・艤装完了させたという信じがたい記録を生んだ。
4) アメリカは「リバティー船」以外にも1万総トンクラスの「T2型標準油槽船:T2 tanker」(油積載量1万6700トン、航海速力14.5ノット)を約500隻、戦後の平時使用を考慮した「ヴィクトリー型貨物船:Victory ship」も414隻建造した。この「ヴィクトリー船」は強力な6000馬力のタービン機関を搭載した8000総トンクラスの輸送船で15ノットの航海速力が出せた。なおどちらもブロック工法と電気溶接が全面的に採用された。
引用参考文献:
(1)『戦時標準船入門』大内 建二 光人社、2010年7月23日発行
(2)『輸送船入門』大内 建二 光人社、2003年11月13日発行
(3)『別冊歴史読本第25(322)号 日米海軍海戦総覧』新人物往来社、1995年11月24日発行
(4)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行
(5)Historic Naval Ships Association. http://www.hnsa.org/
(6)Project Liberty Ship http://www.liberty-ship.com/
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