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山河残りて草木深し―日本本土決戦(26)

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昭和21年2月12日、対日参戦連合国は全世界を相手に戦い続ける大日本帝国を屈服させるため、米陸軍第1軍と第8軍を主力とした総勢約20万の大軍を関東地方へ上陸させた。怒濤の勢いで帝都目前にまで迫る連合国軍をもはや日本軍は止めることはできなかった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■関東会戦II 2 ―蹂躙関東平野

鹿児島県阿久根。
この地を含めた九州の約南半分は、現在アメリカ合衆国軍政府によって戦時統治され、日本の行政権からは切り離されている。
阿久根の街からほど近い古い湯治場に、捕虜として捕らえた日本兵を収容するキャンプが設営され、九州戦、第57軍最後の闘いとなった霧島決戦を辛くも生き延びていた板倉弦二郞はそこに居た。

「第8班第1号、いただきに参りました」

収容所で班長となっていた弦二郞は班員6人ぶんの朝食用オートミールを米軍担当官から受け取った。

「しかしなんだな。世の中こんな不味い食いモンがあるなんて知らなかった」

無理もない。
本来のオートミールは、食材である燕麦《えんばく》に果実などをまぶし甘みを加えた牛乳などで煮て食する西欧粥で、味付け次第では不味くはないが、弦次郎たちが口にしているものは、停戦により中国戦線で余剰となっていた英軍用糧食の燕麦に塩だけを入れて水炊きしたもので決して美味ではない。
これは、米はおろか小麦など穀物類の供給体制が軍政下九州では確立されてはないことを物語っていた。

弦次郎は熊本県人吉付近の山中を右手が負傷した状態で彷徨っていたとき、米軍に捕らえられ、一通りの尋問と取り調べを受けた後、昨年末阿久根キャンプへと連れてこられた。
すでに約二ヶ月ここで生活し、日々爆撃などで破壊された鉄道施設や道路の補修工事など与えられた作業を黙々とこなし、故郷に帰る日を待ち望んでいた。
意外にも関東に連合国軍が上陸したという戦況や内外の情勢は、映像や写真を含めたニュースとしてオープンに収容日本兵たちに知らされていて、弦次郎たち日本兵捕虜は戦争終結が近いことを感じていた。

「いつかアメリカ人《こいつ》らを見返してやる。今のうちにありったけの技術を盗んでおくのだ。このオートミールだってそのうちの一つだ」

元々和菓子職人だった弦二郞は、収容所内でアメリカ式の食事や調理法、さらには生活様式、仕事の進め方などをつぶさにボロ紙に記し、故郷《くに》に帰った後、将来に役立てようと考えていた。

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連合国軍は、先陣が関東上陸を果たしてから3日後の2月15日には、湘南地区の海岸一帯および周辺区域の日本軍掃討をほぼ終え、藤沢へ日本本土侵攻の足掛かりとすべく前線拠点の構築を始めた。
以後10日間、連合国軍はチェスボードに駒を次々に打った。
作戦は急《せ》くことなく慎重に進められ、着実に大日本帝国を詰めていった。

16日、米陸軍第23歩兵師団と第6旅団によって葉山御用邸ならびに周辺地区を占拠。
17日、伊豆大島に駐留していた海兵隊第7水陸両用軍団が横須賀、館山に奇襲攻撃を仕掛け、即日攻略。
〃日、英陸軍遠征軍、平塚、小田原制圧。
〃日、関東内陸部進軍部隊として、九十九里、湘南両地区に増援2師団ずつが揚陸。
18日、
米陸軍強行偵察3個中隊、5個戦闘集団が内陸部への侵攻を開始。

20日、進撃軍主力となるアルヴァン・ギレム陸軍中将率いる機甲師団、第13軍団が湘南海岸へ上陸。
〃日、米軍東金、茂原を制圧。東金に「北部侵攻軍」(
North Advance Corps)前線司令部がおかれる。

21日、米海兵隊、熱海、伊東、下田港、銚子、鹿島港などを制圧。
〃日、米陸軍第164歩兵連隊厚木地区制圧作戦開始。
22日、英陸軍第377自動車連隊、箱根方面へ進出し箱根峠を封鎖。
23日、米海軍艦艇、軽巡デンバーと駆逐艦2隻が横須賀港外に投錨。
25日、
米陸軍第13軍団を主力とする「南部侵攻軍」(South Advance Corps)本隊藤沢より北進開始。

まさに盤面を見る限り、棋力《きりょく》と結末は誰の目にも明かであったが、一部の狂想的指導者により盲目的に先導される日本はもはや自身の駒の数や配置を見ることなく対局していた。

2月末、盤石の体制はできあがり、連合国軍は一挙に攻勢を開始した。
もちろんこの10日もの間、日本政府と軍はただ手ぐすね引いて待っていただけではない。
陸軍は、あらゆる手段を講じてはいたが、列島四方を敵に囲まれた状態で関東への兵力集中は困難を極め、結局のところ帝都防衛用に温存していた第12方面軍以外ほとんど軍を転進できず、内地に100万以上いるとされる兵力は半分以下しか関東防衛に回せないのが現状であった。
航空兵力に関しては、陸海軍の生き残り部隊が数少ない飛行場を拠点としていたが、どこも航空燃料は枯渇し、西日本や北日本の部隊は航空機を関東へ飛ばせる状態ではなかった。
なお、海軍の「連合艦隊」は司令部を陸上の松代に置き、名目上存在はしたが、既に関東近海で稼働できる艦船は特殊潜航艇や特攻兵器を含め米軍の上陸作戦により全て壊滅し、瀬戸内海に辛うじて秘匿潜水艦基地を残すのみとなっていた。

帝国陸軍の関東防衛を担う第12方面軍は、具体的には以下のような編制である。

第36軍 《浦和》 8個師団 兵力約9万6000
第51軍 《高浜》 3個師団 3個旅団 兵力約4万2000
第52軍 《酒々井》 4個師団 1個旅団 兵力約7万4000
第53軍 《伊勢原》 3個師団 2個旅団 兵力約5万9000
東京湾兵団 《船形》 1個師団 2個旅団 兵力約2万4000
東京防衛軍 《東京》 3個旅団 兵力約2万1000
直轄部隊 3個師団 2個旅団 兵力約6万1000
合計:37万7000(米軍関東侵攻時)

さらに正規軍以外、16歳以上50歳未満の男子で構成される「國民義勇戦闘隊」約16万と後方支援として、軍需工場や生産現場で寝る間無く奉仕していた国民勤労隊の「勤労婦女子隊」(中学生以上40未満の女学生と婦人)および「忠臣労務隊」(55歳以上65歳未満の男子)のうち、新たに「女子挺身戦闘隊」、「忠臣戦闘隊」合計約12万を編成、準軍事組織化し国家存亡の闘いに備えていた。
文字通りの “国民皆兵” であった。

連合国軍、南部侵攻軍戦車師団が隊列を組み、怒濤の勢いで鎌倉街道を北進開始したちょうどその頃、米陸軍部隊の手により海軍厚木飛行場は陥落した。
飛行場を中心に厚木地区を守備していたのは帝国海軍特別陸戦隊約3千と帝国陸軍第140師団第403、404歩兵連隊合計約2千、それに駆けつけた独立戦車第2旅団の戦車14輌であったが、22日深夜から始まった米軍の攻撃で、守備隊の総兵力四分の三を一晩で一挙に失った。
以後2日間は陸戦隊の奮戦により籠城死守したものの、26日夕刻、滑走路や格納庫、掩体豪を残しておいたダイナマイトを使って爆破したのち、第302海軍航空隊司令をはじめ主立った者が自決し守備隊は壊滅、厚木飛行場は米軍の手に渡った。
一方、東京の東側、房総半島からは北部侵攻軍本隊が、前線拠点とした東金を27日に北西に向け進撃を開始し、東京を迂回する形で関東平野を佐倉、利根川方面に向った。
またこの時横須賀、館山、木更津は海兵隊の手により陥ちており、浦賀水道は米海軍が完全封鎖、付近を守る帝国陸軍東京湾兵団は壊滅寸前まで追い込まれていた。

第12方面軍の日本軍は、かつての “奉天会戦” 如く、一大会戦による決戦構想は捨てきれずにいたものの、要衝防衛とゲリラ戦術、市街戦を主眼とし作戦を立てていた。
東京西方から北進してくる敵主力に対し、必ず通過する多摩丘陵地帯に歩兵部隊を潜ませ攻撃を行うとともに、八王子や立川などの近郊市街地に虎の子の戦車部隊を配置させていた。
また東から西進してくるであろう敵軍に対しては、多摩丘陵のような有効な防御壁が少ないため、兵力を分散配置させざるを得ず、まずは房総北部、八街、酒々井付近の山林原野に最初の帝都防衛線を引き、予測される利根川より南側に機動力を持った数個旅団を配置し敵侵攻に備えた。
なお、多摩川、荒川など主要河川に掛かる橋梁全てを爆破落橋させていた。

 

政治局面においては日本側で僅かながら動きを見せた。
政府は公式には関与していないが水面下では、政財軍人OBなどで構成された「光明会」と呼ばれる “国土戦略研究会” が山梨県甲府にあり、その「光明会」が停戦への模索をしていた。
同会顧問、畠鹿孝信《はたしか・たかのぶ》元内閣総理大臣が、ソ連参戦前に一度は試みて失敗はしたが、ふたたびソビエト政府を仲介役として連合国と停戦協議を行うための準備をしていた。
ソビエトは昨夏、日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本へ宣戦布告した連合国の一員で、交戦状態の日本とは国交を断絶しているが、これまでの満州朝鮮、樺太千島における日ソ戦をかつてのノモンハン事件同様、全面戦争ではなく “局地戦” と規定することで反故とし、中立国経由で講和を結ぼうと畠鹿は考えていた。
しかし、旧藩主家現当主で時局を読み切れない畠鹿自身本気でそう考えていたものの、光明会の狙いは別にあって、実質的な会のリーダーである高木惣吉元海軍少将や同会の袋内太郎元駐英大使らはそれを政府と軍を欺《あざむ》くための表向き口実とし、真の目的は連合国との直接交渉による終戦工作であった。またこのとき既に光明会と合衆国機関との間にはコンタクトラインが僅かながらも結ばれていた。

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ハンス・ブラウン軍曹は、軍の命令により連合国軍ダウンフォール作戦陸軍本部が置かれるマリアナ諸島サイパン島へ来ていた。
逗留先の北東部浜辺にある軍人用コテージ窓から眺める景色は、わずか北1400マイル先で行われている戦争など嘘のように静かで美しかった。
しかし南国の楽園とはほど遠く、激戦の戦場であった痕跡は未だ褪《あ》せず、島唯一の街、ガラパンは両軍の激しい戦闘により焦土と化し、島内いたるところに擱座《かくざ》した艦船や破棄された兵器、白骨化した遺体など数多く残置されたままであった。
サイパン島は、他の南洋群島と同じく第一次世界大戦で戦勝国となった日本が、名目上国際連盟から委任された形で統治権を取得し自国勢力圏下に置いたが、2年前の米軍による侵攻で現在の統治行政権は、沖縄・南九州同様アメリカ合衆国軍政下に置かれていた。

そしてブラウンは、マリアナに来てからちょうど二週間目の朝、出頭指令を受けグアム島のマリアナ前進基地陸軍司令部に出向き、そこのウィリアム・スラッテリーなる陸軍大尉のいるオフィスへ入った。
部屋の中には中肉で背が高い典型的東部人タイプのスラッテリーと海軍士官服を着た東洋人がおり、その東洋人はアメリカ人のエドワード・アオキ少尉と名乗った。

スラッテリーが切り出した。

「軍曹、君は本日よりSOCへの配属となった」

「SOC?」

「陸軍特殊コマンド部隊だ。敵陣奥地まで入り作戦を遂行する。そして私がSOCの指揮官だ」

「敵陣への殴り込みは空挺隊の任務なのでは?」

「いや、違う。隠密性を要する特殊任務であって空挺作戦とはまるで違う」

「まぁいいでしょう。で、私に何をしろと?」

ブラウンの疑問にアオキが口を挟んだ。

「実は軍曹、潜水艦を使い夜陰に紛れ日本本土に上陸し、それから奥地へ進み、二箇所でとある要人の救出保護作戦を行う」

「ほぉ、で何人で作戦を?」

それについてスラッテリーが答えた。

「私を含めて12名。それにこの海軍のアオキ少尉が加わる」

「海軍士官さんもご同行なさる?」

「ははは、この少尉はただ者じゃないぜ。まぁ軍曹も直ぐに判るさ」

ブラウンもつられて軽く笑ったが、脳裏ではこれから起きうるであろう新たな戦いへ密かに闘志を燃やしていた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(27)】