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山河残りて草木深し―日本本土決戦(25)

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昭和21年2月12日、対日参戦連合国は全世界を相手に戦い続ける大日本帝国を屈服させるため、米陸軍第1軍と第8軍を主力とした総勢約20万の大軍を関東地方へ上陸させた。怒濤の勢いで帝都目前にまで迫る連合国軍をもはや日本軍は止めることはできなかった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■関東会戦II 1 ―Terminus of the Tokyo Express

連合国軍の上陸先鋒隊は総勢4個師団で編成された第1攻撃群で、彼ら歩兵と物資を満載した無数の舟艇隊は、我先にと行かんばかりの勢いで互いに競争し合い九十九里、湘南両海岸を目指した。さながらインディ500である。
海面に要塞砲が放った砲弾が着弾し水柱があがり、砂浜には空から爆弾が降り注ぐ。
敵味方の人間が放つ覇気や怒気、それに狂気、恐怖といったありとあらゆる思念が渦巻く関東南岸は瘴気《しょうき》で満ちあふれていた。

 

連合国軍の関東侵攻作戦―コロネット作戦―は、その主体であるアメリカ合衆国の底知れぬ工業生産力と輸送商船隊による物流システムで供給される大量物資と、地形や気象条件、スパイから得られた内情などを緻密に分析した計画により組立てられていた。
以下がその作戦概要である。
なお、多少の差異はあるが基本、東西二つの上陸ポイントへの攻撃兵員数は同量である。

まず第一撃隊として、歩兵6個師団(約9万)で編成された第1攻撃群が敵正面へ強襲上陸を行い、間髪を入れず後続第二撃として機械化部隊を伴った2個師団(約3万)が上陸。周辺敵陣地掃討後、拠点確保と味方陣地構築を行う。
この時点での関東上陸軍総数は、損失含めず最大で全8個師団合計約12万の兵員規模である。
次に機甲師団(機動陸戦部隊)を含めた増援8個師団約12万が、第一攻撃目標確保から3~10日のブランクを経て五月雨《さみだれ》式に揚陸し内陸部へ進撃、追って物資補充を済ませた先遣上陸部隊がこれらに合流、進撃軍約20万以上の兵員規模をもって南北から帝都を挟撃し攻略、同時に関東一円の制圧を目指すというものだ。もちろんこれらとは別に数十万の兵力を即応できる体制としていた。
また平行して、既に伊豆諸島を制圧しそこを拠点としている海兵隊水陸両用軍が、館山・木更津、横須賀・横浜、熱海、銚子などを強襲制圧。可能とあらば浦賀水道より東京湾内海に侵入し、川崎・多摩川河口部、墨田・荒川河口部及び浦安等への上陸も予定していた。


連合国軍は、ホッジス米陸軍中将総指揮のこれらコロネット作戦のうち、上記帝都進撃作戦をOperation TTE:Terminus of the Tokyo Express―“東京急行の終着駅作戦” と呼称していた。

 

海岸に迫る第1攻撃群を迎え撃つそれぞれの海岸からは日本軍が大砲、戦車砲、機銃を放った。
だが弾薬不足は否めなく、どの砲台、陣地からも砲撃は例外なく散発的である。
さらに追い打ちをかけるように、後方海上の機動部隊から飛び立った米海軍戦闘機隊と急降下爆撃機隊が正面要塞陣地をしらみつぶしに襲撃し、砲台を一つずつ沈黙させた。

午前7時前、ついに最初の揚陸艇がビーチングを敢行し、舟艇前面ドアが開き、一斉に猛者《もさ》どもが走った。
九十九里と湘南ほぼ同時刻だったが、九十九里へ辿り着いた部隊の方が若干早かった。
第1艇到達から数秒単位で無数の別艇も順次ビーチングし、怒濤の勢いで砂浜へ力走していった。

とうぜんながら、最前列兵は日本軍の恰好の的《まと》となりバタバタ斃れていったが、タフネスなG.Iは怯《ひる》まない。
地雷原である砂浜は、事前に行った猛爆でかなり除去されているものの、いぜん日本軍がまき散らした地雷や鉄鋲《びょう》、竹串が埋まっており、爆撃や誘爆で空いた穴を頼りに走った。
迎え撃つ日本軍も祖国のため、夷敵に土足で踏み込まれる屈辱から捨て身で闘った。
だがしかし、津波の如く浜一面、横何キロも拡がった上陸軍を相手では防ぎきれなかった。
そして湘南海岸の日本軍第一防衛線は、上陸開始から僅か数十分でほぼ全線が突破され、前衛陣地はことごとく占拠制圧されてしまった。

一方、九十九里攻略では米軍は少々手こずることとなった。
上陸が始まる直前の2月初旬、千葉方面を守備する帝国陸軍第52軍隷下、戦車第4師団並びに独立戦車第3旅団に属する本土決戦用に温存し、主砲を47mm戦車砲に換装した九七式中戦車87輌、一式中戦車52輌が九十九里方面へ進出していて、このうち旧車である九七式中戦車全輌を海岸付近要衝半地下に埋没させ潜ませた。もちろんこの場合、戦車としての機動は不可能だが、砲塔は360度旋回可能状態で障害物が付近になければ全方位砲撃可能となる。
そして要塞トーチカの海岸砲大半を松や欅から造った擬装砲とし、その周囲に配備した一式中戦車の戦車砲から砲弾を放ちあたかもトーチカから射撃しているように演出した。米軍は不覚にもこれら要塞砲をダミーだと全く気がづかず、上陸前にそれらを空爆し、沈黙させたと思い込んでいた。

その後米軍の上陸が始まり、地雷原の砂浜を突破し、防御壁を爆破し松林を火炎放射器で焼き、陸地に一歩進んだところで日本軍の反撃が始まった。
上陸部隊は、四方から地下に埋まった47mm戦車砲の不意打ち攻撃にさらされ立ち往生し、最中、海岸坑道に潜んでいた日本兵による爆弾を抱えた肉弾攻撃を受け多くの死傷者を出した。なお肉弾攻撃には海軍の伏龍隊隊員も含まれていた。
本来であれば伏龍隊は海中挺身兵であったが、宮崎での戦訓を受け、場を海中から陸上に改め、装備も機雷棒から爆薬棒にを持ち替えて特攻した。
結果的に九十九里海岸地区での死闘は二昼夜続き、米軍が日本軍の海岸要部を掃討占拠したのは14日明け方となった。

 

海軍厚木飛行場から飛翔した木場、鳥尾、大平が操縦するジェット迎撃機橘烈3機は、まさに上陸軍が浜へ押し寄せてる最中の相模海岸に出た。
眼下の友軍要塞からは敵味方関係なく上空を飛ぶ航空機に対し対空砲、導爆索気球を放っていて、木場隊はそれをかいくぐり好餌を求めた。
もちろん戦術的には敵兵を襲撃すべきところだったが、木場はそれを好まず敵機との格闘戦に拘った。
そして襲撃任務を終えたであろう海岸から離れていくSB2Cヘルダイバー4機編隊を捉え、橘烈はあっという間にそれら4機を撃ち落とした。
直ぐさま上空直援機のF8Fベアキャット6機が木場隊に迫ってきた。

「よし、待ってました奴さん!」

と大平が白い歯を出しニヤッとした。

木場ら3機は紫電改のように小回りのきかない橘烈ではあるが、それを逆手にとって敵真っ正面に進路をとり、敵機が回避する直前大きくシュートし、橘烈の高速性を活かしベアキャットの真上や真横に出て機銃を放ち6機を撃ち落としていった。
索敵はさらに続き、敵爆撃隊、戦闘機隊を見つけては堕とした。

会敵してから僅か5分ほど空戦ではあったが、結果、木場小隊は16機のヘルダイバーと10機のベアキャットを撃墜するという帝国海軍史上驚異のスコアを上げることとなった。
たが、つい吹かせ気味にしてしまうなど、不慣れなジェット機の操縦も手伝い、作戦行動時間は残り少なく早くも搭載燃料が長野方面へ向うギリギリの枯渇寸前状態となっていた。

「クソ、咳き込みそうだ。これで終いかっ!」

木場はそうぼやいて苦笑し、僚機2機に対し、機上から通信板(携帯黒板)を使いサインを送り、真下で繰り広げられる一進一退の死闘に後ろ髪を引かれる思いながらも、小隊は最後の牙城となるかも知れない信州方面にコースをとり戦線を離脱した。

この日本軍によるジェット機実戦投入のニュースは、直ぐさまマリアナ前進基地の司令部に報告され、連合国軍最高指揮官マッカーサー元帥は厚木飛行場を早期に確保し、そこにジェット戦闘機P-80部隊を配備させるべく相模制圧を急がせた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(26)】