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山河残りて草木深し―日本本土決戦(27)

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昭和21年2月12日、対日参戦連合国は全世界を相手に戦い続ける大日本帝国を屈服させるため、米陸軍第1軍と第8軍を主力とした総勢約20万の大軍を関東地方へ上陸させた。怒濤の勢いで帝都目前にまで迫る連合国軍をもはや日本軍は止めることはできなかった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■関東会戦II 3 ―三・二(3.2)八王子立川会戦

米陸軍を主力とした連合国侵攻軍は、藤沢と東金に侵攻拠点を築いていた。
関東侵攻作戦における前線司令部は藤沢(当初は東金が候補地)市内の湘南産業会館におかれ、未だ戦火冷めやらぬ2月22日には米陸軍第1軍司令でコロネット作戦総司令官コートニー・ホッジス中将と第8軍司令ロバート・アイケルバーガー中将が司令部入りした。

司令部と同じ藤沢に侵攻拠点を持つ米陸軍第8軍は、東京攻略軍団として通俗名「南部侵攻軍」(South Advance Corps)を名乗り、目下の攻略目標を日本軍第12方面軍第36軍・第52軍が集結する八王子立川など東京都多摩西部地域と定めていた。
東京中心部を制圧するには、神奈川方面からであれば東海道を上り川崎を経由し多摩川を渡河するのが最短だが、そこには精鋭とされる東京湾師団および東京防衛軍が守備し、予測される矢口・大森あたりで会戦ともなれば西から第36軍・第52軍に側面を突かれる可能性もあって、連合国軍としては東京攻略には多摩西部の制圧が不可避と考えられた。

その南部侵攻軍は、アメリカ最強の戦車部隊と恐れられたアルヴァン・ギレム中将率いる第13軍団が侵攻軍の先導役となり怒濤の勢いで北進、26日時点で多摩丘陵稜線南側の相模原橋本地区まで達していた。
軍団はここでいったん、先行部隊や22日に箱根方面へ進出し道志街道を東進してきた英陸軍第377自動車連隊偵察2個中隊およびグルカ旅団と合流、軍勢を整え28日丘陵地帯の御殿山・野猿《やえん》平山地区を守備する帝国陸軍53軍第316師団への攻撃を開始した。
また支援攻撃として、上空から八王子立川など多摩地方西部市域に対し海軍艦載機による集中爆撃も同時に行われた。


丘陵地帯を越え、八王子市内方面へ大規模な戦車部隊が進出するには、東京都側御殿山峠を頂点に橋本と八王子を南北に結ぶ古街道の一本道しか選択肢はほぼなく、日本軍は必然的にこの峠越え街道へ防御線を引いていたが、連合国軍は第316師団の陣地や配置など一週間前から当地付近まで先行していた強行偵察中隊と戦闘集団により詳細に把握していて、御殿山峠攻略に半日と掛からなかった。

野猿峠に籠もる日本軍など、周辺掃討が未完了ながらも、ギレムは工兵隊に街道修繕を命じ、早くも3月1日午後にはM26戦車が通過可能なレベルにまで達し、翌2日午前5時、夜半から降り始めた雪の中をギレム機甲部隊は橋本から一気に御殿山峠を越え片倉地区へ下り、それこそ雪崩の勢いで八王子市内に突入していった。市内には帝国陸軍の決戦戦力である戦車部隊がおり両軍は衝突した。
後の話だが、日本国政府国防省編纂『大東亜戦史』に “三・二八王子立川会戦” として綴られた日米開戦以来最大規模の機甲師団同士の会戦がここに開始されることとなった。

米軍侵攻に備えていた帝国陸軍は、多摩丘陵を突破されることを想定しており、丘陵守備隊を最小兵力にとどめ、主力は第36軍201師団を中心に先述の第53軍第316師団一部隊を加えた歩兵部隊と佐野、厚木それぞれから移動させていた第36軍戦車第1師団および第53軍独立戦車第2旅団の連合戦車部隊を多摩川南岸八王子方面および北岸立川方面に集結させ、帝都西側最後の要としていた。
この八王子立川方面に配備した日本軍戦車部隊の戦力は、本土決戦用に温存していた一式中戦車30輌、三式中戦車48輌と前年ようやく少数がロールアウトした最新型四式中戦車6両、それに九七式中戦車若干輌、他一式機動速射砲多数で、それらを家屋や廃墟ビル、雑木林など物陰に配置していた。
日本は、自動車工業の技術と生産能力に関して、米国より格段に劣りレベル的に20年以上の相対的開きがあり、先の一式中戦車と九七式中戦車は米国製戦車に対抗しうる能力は皆無だったが、三式中戦車と四式中戦車を開発するに至り、ようやく米国製戦車とある程度互角に対峙可能なレベルにまで達していた。そして後者二型は本土決戦用虎の子として量産したほとんどの車輌を内地に留めていた。

ギレム機甲部隊は、圧倒的火力を誇るM26重戦車 “パーシング” 34輌と市街戦を想定したコンパクトで高機動のM24軽戦車 “チャーフィー” 26輌、これにM37自走砲18輌(門)、3インチ機動牽引砲20門、他M3型トラックなど車輌多数と戦車運用に欠かせない機械化支援工兵隊を従えていた。
部隊はさらに3個機甲中隊と機動歩兵1個大隊が、マシュー・ストックウェル大佐指揮する別働隊として八王子市内に突入する本隊と片倉付近で分離し、立川攻略に向かった。

両軍が放つ榴弾砲の砲声や機銃音は轟いてはいたが、八王子市内は雪の音が聞こえるほど静かであった。
もちろん2日前に行った艦上爆撃機による市域部への集中攻撃の成果ではあるもののギレムは、日本軍が行うであろう肉弾攻撃の予測をしていて、敵は市内瓦礫に戦車を引きずり込み、物陰から歩兵が爆弾を抱えて出てくると読んでいた。
そのため、戦車を前面に出すことをせず、自動火器で装備した歩兵部隊を先行投入した。
敵がどこにでも潜める市街戦では、M1ガーランドなど銃身が長い小銃では例えセミオートタイプでも不利であり、自動火器と迫撃砲による面射撃で敵を斃すのが有効である。そのため、「目」となるべく歩兵部隊が先導役として、敵陣地を見つけては潰していき、そのポイントまで戦車隊を前進させる戦術を行った。

日本軍はギレムの予測通り、辻や建物に隠れていて時折前進中の米軍部隊に向って、益子で量産されたフタから伸びたヒモを引っ張ることで爆発する陶磁器製爆弾を胴体にぶら下げ銃剣突撃していった。前年秋の宮崎市攻防戦同様の捨て身戦術である。
中には数名の米兵もろとも爆死する兵もいたが、大半の日本兵はM1カービンの.30弾かM12の散弾を浴び突撃半ばで死亡した。
機械化部隊の方は、少数だが新型四式中戦車などもあり、総火力面では攻める連合国軍と肩を並べられるほどの戦力を集結させていたものの、作戦参謀たちが思っていた以上に有効利用できないでいた。
そればかりか市域各戦線で次々と稼働不能に陥り、数を減らした。
これはギレムが友軍戦車を決して正面に出さず、後方からの支援砲撃に徹した戦術を執っていたからである。

M26やM37は専ら敵陣砲撃と血路開削に使われ、対戦車戦では戦車や装甲車より遙かに軽快なウイリスMB(ジープ)に “バズーカ” の愛称を持つM9対戦車60mmロケットランチャーを持った兵士が同乗して縦横無尽に走り戦車狩りを行った。先年、独軍が効率的にパンツァファウスト(歩兵用携帯対戦車火器)を用い連合国軍を翻弄した欧州戦末期の戦訓である。
鎧武者のようなに無骨な九七式中戦車は鈍重な上、前面側面ともに最大で25mmの装甲しか持っておらず、バズーカ一撃で被弾戦闘不能化させられるので、米兵は面白がり好んで攻撃を加えた。兵士の中には弾着安全距離を考慮せず “度胸試し” ばりに敵戦車間近までジープを滑らし攻撃をする冒険心旺盛なヤンキーまでいた。
ただ、九七式中戦車車体装甲側面へ爆薬を括りつけた自爆車輌も中にはあり、それに当てたときは自業自得だが誘爆により米兵の乗ったジープも木っ端微塵に粉砕した。

戦闘が開始され6時間ほど経過した。
戦車を有効活用できず、一輌また一輌と数が減っていくことに焦りを感じた帝国陸軍八王子守備隊は、戦況現時点において総火力では米軍と対等であり、かつ、自陣の地の利と機動性の高い友軍戦車であれば対抗できると判断、後方待機中の一式および三式中戦車で編成された機械化主力隊を正面に出し市内各所から米軍戦車部隊へ一斉攻撃を開始した。
だがこれも日本軍戦車を燻《いぶ》り出すためのギレムが巧妙に計算した戦術であった。
地の利に関しては戦前の多摩西部地図に直近の航空偵察で得られた最新情報を転記し作図した精密な作戦地図を米軍は有しており、ある意味日本軍以上に地理を把握していた。
そして総火力と機動特性では日本軍戦車にやや劣勢であった米軍だが、総合的な戦車性能においてはモンスター級戦車であるM26はあらゆる面で日本軍戦車をしのぎ、結果日本軍戦車は敗退した。

帝国陸軍の本土決戦兵器である一式中戦車と三式中戦車は、細部差異は多少あるが基本、砲塔部戦車砲が47mmか75mmの違いのみで、前面装甲50mm(側面25mm、後面20mm)の車体と搭載240馬力V12空冷式ディーゼルエンジンは二車同型である。
特長としては、両式とも軽油を燃料とするため燃費が良いうえ被弾炎上の危険性が少なく、足回りのエンジン性能も平均的にレスポンス良好で、一式・三式ともに40キロほどの最高速度を誇った(ただし三式は75mm砲搭載による自重増で一式よりやや劣る)。
この三式中戦車の機動性能と大口径75mm戦車砲による攻撃力を活かし、“猛牛” として知られ操縦術に長けた戦車第5連隊阪東善吉中尉などはM24三輌も撃破行動不能にした。
ただベテラン阪東中尉の活躍は特異な例であって、大多数の車長は学徒動員の見習い下士官が着任し満足な操縦や射撃ができず、敵車照準しても逆襲され多くが餌食となった。
片やM26は、自動車王国米国の集大成ともいえるマシンで、90mmという桁違いの戦車砲を備え装甲も日本軍戦車の約2倍の厚さを持っていた。
しかしその攻撃力とは対照的に重量が41.9トンもあり、搭載する500馬力V8水冷式ガソリンエンジンをもってしても機動性は悪く、特に起伏が激しく大型戦車の運用に適した開けた原野の少ない日本の地形では主役機として運用し難かった。そのためギレム機甲部隊では露払いとしてM24を起用した。
M24は軽戦車ながらも75mm戦車砲を搭載。さらに286馬力V8水冷式ガソリンエンジンを2基備え軽快に戦場を駆り日本軍戦車を血祭りに上げた。また軽戦車ゆえ砲塔防盾装甲は38mmあったがそれ以外、前側面など最大25.4mmしかなかった。だが敵弾回避構造(避弾経始《ひだんけいし》と呼ばれる技術:自車が直撃弾を受けた場合でも傾斜された装甲によりエネルギーが分散され被弾しにくくなる装甲技術)で覆われる防御装甲により、日本軍戦車が放った徹甲弾の直撃を受けても跳弾し装甲が凹みすらしない例もあった。
この米軍側におけるM26とM24の組み合わせ用兵はある意味長所と短所をうまくマッチングさせたベストなセットで、日本軍側の一式とそのマイナーチェンジ版である三式のように長短無関係な組み合わせとは根本的に異なっていた。

初戦は一進一退ではあったものの、以後4日間の戦闘で日本軍は次第に北東へ圧《お》され、各戦車部隊は戦力温存のため転進を余儀なくされた戦車第1連隊の四式中戦車部隊を除き大半が壊滅し八王子戦線は崩壊。第201師団と第316師団の残存部隊は杉並以東へ敗走した。

立川戦線は、ストックウェル隊が3月2日に日野の日本軍陣地を攻略し、同日には春前で水量が少なくなっている多摩川を渡河し立川市内に突入した。
市域を守備する帝国陸軍の戦車を含めた部隊大半はこの時既に八王子市内へ移動していたため、日本軍の抵抗は最小限に留まりストックウェル隊は中央本線立川駅周囲の中心地を含め、陸軍飛行第5連隊立川飛行場や本地域に集中している軍用機製造工場を二日間で制圧していた。

3月6日、南部侵攻軍は後続歩兵部隊1万4千を改めて八王子と立川市内に進出させ、連合国軍は8日には周辺地域、青梅など西多摩郡すべてと町田を攻略し手中に収めた。
八王子立川など多摩西部地域は今次大戦下、多数の疎開工場や軍事施設が建設され、東京西方における軍都として賑わいをみせ発展してきたが、昭和20年8月1日の130機からなるB-29による大空襲を皮切りに以後、米軍の焦土作戦目標地区となり数次に渡る攻撃で街や高尾山秘密工場(米軍関東上陸直前、山梨県塩山柳沢秘密工場に再移転していた)を除く大半の工場は焼けたが、21年2月時点では、都市部に比べ被害は最小限に留まっていた。
しかしこの一連の会戦により、八王子と立川はこれまでの空襲で焼けなかった家屋や建物も戦闘で破壊され、周辺村落も日本軍が火を放ちながら転戦していったため、一帯は都市部同様瓦礫と廃墟に化してしまった。
これら代償は余りに大きく、同時に日本軍は、帝都西部における重要な戦略拠点を失うこととなった。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(28)】