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山河残りて草木深し―日本本土決戦(28)

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日本軍の敗北に終わった八王子立川会戦から二週間後の昭和21年3月20日、ついに帝都中央で攻防戦が開始された。四面を連合国軍に包囲されている帝都防衛軍は援軍も望めず玉砕しか道はなかった。また時同じくソビエト赤軍が満を期して北海道に上陸を開始。電光石火の勢いで全道制圧を目指していた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■関東会戦II 4 ―帝都攻略

八王子立川会戦から四日後の3月10日、物資補給と部隊調整を行った連合国軍南部侵攻軍は、帝都中央を攻略すべく青梅街道を東に進撃し中野・新宿付近に展開中の日本軍と対峙、杉並区荻窪に布陣した。
また、東京西南部に血路が拓けたことにより、進出拠点である藤沢から第8軍東京攻略部隊が多摩方面へ順次出撃していき、それら攻略隊は町田を経由し、高幡《たかはた》・関戸から多摩川を渡河、対岸の府中と陸軍調布飛行場を抑え、その足で甲州街道を上り12日には杉並区高井戸まで達した。
なお攻略軍の中から臨時編成された特別任務2個中隊は、帝国陸軍高射第112連隊久我山陣地の制圧に差し向けられ、同陣地にあった最大射程1万9000メートルを誇る15センチ高射砲2門を接収した。
同砲は昨年8月、高高度を往く2機のB-29を撃墜した強力な対空火器で、日本軍は帝都外周部に30門以上配備する計画を立てていたが肝心の砲塔を製造していた大阪陸軍造兵廠が空襲で全壊し供給困難となり実戦配備はこの2門のみであった。また、米軍も陣地上空の飛行を避けていたため標的は得られず撤収にも手間が掛かるため遊兵化していた。


一方、東金から東京攻略に向け出発した北部侵攻軍は、千葉市周辺を制圧し西進、江戸川放水路・荒川両河川を渡河すれば東京へいち早く侵攻できたが、北総地区に布陣している帝国陸軍第36軍戦車第4師団と第52軍独立戦車第3旅団の機甲部隊との直接対決を避け、敵に背後を突かれる可能性はあったが、利根川南岸沿いに第36軍遊撃部隊を撃破しながら北進、野田、春日部を制圧し、12日には第36軍の本拠地である浦和の攻略に取りかかった。

帝国陸軍第36軍は、満州で対ソ戦に備え展開していた戦車師団を昭和19年夏頃から内地異動させ本土決戦における精鋭機械化師団として位置づけられていた。
浦和を本拠地としたのは、その地理的要因から敵上陸が予想され進出してくるであろう神奈川方面と千葉方面どちらにも即応可能だからだ。
ただ本時点においては、虎の子機械化部隊ほとんどを東西の戦線へ展開させてしまい、上陸戦初戦および八王子立川会戦でその大半を失っていた。
それら作戦に参加しなかった師団司令部留守戦車部隊は、千葉方面の第52軍独立戦車第3旅団と同調作戦を執るべく北総地区へ進出した一隊と南進し東京防衛軍・東京湾師団(東京防衛軍合同軍)と合流した一隊、そして残存戦車第1師団が戦車第5連隊を主力に北関東防衛隊として再編、北部守備へ回送され、浦和一帯に配備している戦車は、九七式中戦車を筆頭に九八式軽戦車と九五式軽戦車など旧式車輌総数10輌ほどしかなく、さらにその大半は燃料を満足に入れる事すらできず地中に埋め砲台としていた。
また、全8個師団および遊撃・打撃部隊の兵員総数にして敵上陸前には9万6000を誇っていたものの、ほぼ全ての主力歩兵部隊は各戦線へ分散され当地区守備隊は僅か8000ほどであった。

そのため、北部侵攻軍は浦和をほぼ無血状態で翌13日には制圧完了し、本隊は荒川北岸川口戸田へ陣を張った。
また、裏をかかれた北総地区に展開中の日本軍戦車部隊は総数40輌ほどだが、東からは続々と米軍が上陸してきており、戦略的に留まる意味を持たなくなり千葉以西東京東部守備のため北総地区を放棄西進した。
さらに東京湾からは米海兵隊3個連隊と英軍コマンド部隊が浦賀水道を抜け、東京港へ強襲する構えをみせていた。
これにより帝都東京は完全に連合国軍に包囲され、陥落はもはや時間の問題となっていた。

そして連合国軍の総攻撃が3月20日に開始された。

 

連合国軍は東西南北四面から一斉侵攻した。
この時点で、本州は茨城以東、北関東以北、静岡以西など日本軍の勢力圏下にあり、連合国軍が制圧している部分は関東地方の一部分に過ぎない。しかしながら疲弊しきっている日本軍は帝都東京に援軍を差し向けるだけの余力は既になかった。
東京は、中央政府や軍指揮中枢、さらには天皇及び皇族(一部の軍人皇族を除く)は既に信州宮城《きゅうじょう》と呼ばれる長野県松代へ移っており、“一地方都市化” してはいたが、内務省や運輸省など行政機関の一部は移設されないで残り、国際的に「首都」であり「宮城」が存在するのもやはり東京であって、帝都であることに変わりはなかった。

20日の帝都における日本軍勢力範囲は、都政移行前の東京市とほぼ同じで、西の最前線が中野杉並区界、北が埼玉県県境、南が神奈川県県境、東は千葉市付近である。
この帝都防衛の任は、東京留守近衛師団や各戦線からの転進兵力約2万2000を集結させ再編成した「東京防衛軍合同軍」が能《あた》った。
合同軍には、正規陸軍部隊の他に海軍陸戦隊、警視庁巡査隊、國民義勇戦闘隊、忠臣戦闘隊、女子挺身戦闘隊も含まれている。
数は揃った東京防衛軍合同軍であったものの武器弾薬はほぼ底をつき、歩兵は小銃を手にしていても実弾はなく銃剣のみで対抗せねばならず、陣地変換して移動させた戦車60数輌も新型四式中戦車など含まれてはいたが、肝心な燃料である軽油や弾丸はもはやなきに等しかった。そして巡査隊はサーベルや日本刀で武装した “抜刀隊” となり、國民義勇戦闘隊は火縄銃を持ち、忠臣戦闘隊や女子挺身戦闘隊は竹槍や陶磁器手榴弾が主力兵器というありさまで、すがたは戦国時代とさほど変わらなかった。

連合国軍は、帝都中心部に向う主要幹線道路を使い進撃した。
高井戸・烏山地区に陣を構えていた第65歩兵師団なら甲州街道を東進、神奈川から北進する騎兵第3師団なら東海道などといった具合である。そして主要街道と平行して伸びる間道にも警戒中隊規模の部隊を進ませた。
もっとも、数多くの空襲により東京区部ほぼ全域に渡り焦土化し焼け野原となっており、どこに道路があるか判らないところも多かった。

日本軍は、東京に点在する高台至るところに砲撃陣地を構築し、敵が照準距離に入ったと同時に砲撃を行い、砲弾が底をつくと続いて突撃隊が瓦礫や地下壕から飛び出し白兵強襲を行った。
だが、圧倒的火力を誇る敵に対抗できる術はなく、戦闘は一方的なものとなり、各戦線の日本兵は奮戦空しく唯々斃れていった。
正規軍や巡査隊は組織的に銃剣突撃や抜刀攻撃を行って、それなりの戦果を挙げた部隊もあったが、女子や少年、老人は悲惨だった。
組織的に闘う術を知らない彼らは、ただひたすら街を走り敵の的になった。
女子は顔に墨を塗り剃髪し陣笠や鉄兜を被っていたが、米兵たちには、直ぐに兵が女であることに気がつかれ、上層部から硬く禁じられていたにもかかわらず、程度の低い米兵の一部は彼女たちを輪姦した。
陵辱されてる最中、持参している陶磁器手榴弾のヒモを引っ張り米兵もろとも自爆する女子もいたが、大半は起爆直前に気づかれ射殺された。
ただ米兵の中には、攻撃の意思がなく瓦礫に身を潜め震えている少年兵を見逃してやったり、武器を持っていない無抵抗の老人を殺そうとする同僚兵を殴りつける者も少なからず存在はした。

20日の夜になり、日本軍は敵野営地に対し各地で夜襲を試みはしたが、警戒中の米軍は東京中に陽を灯す勢いで投光器や野戦灯を使い戦場一帯を照らし出し日本軍を寄せ付けなかった。
夜が明け、連合国軍の攻勢はさらに強め、日本軍を追い詰めた。
21日正午頃の日本軍勢力範囲は、宮城を中心に西側は市ヶ谷・四谷一帯及び青山・赤坂一帯、南は警備第2旅団第11大隊と歩兵第401連隊が守備する品川・大崎地区を除き新橋辺りまで、北は本郷・上野近辺、東は第52軍が千葉市内を孤軍死守していたが、隅田川東岸亀戸付近まで米軍が迫り最前線となっていた。

連合国軍が意図的に追い詰めていった結果ではあったが、日本軍の大半は本郷・上野に集結していた。
八王子方面から転戦してきた第201/316師団、東京防衛軍警備第1旅団、北総戦線から移動した連合戦車師団戦車15輌など総勢1万ほどである。
この辺りは、起伏ある地形で日本軍は、部隊を谷間や東京帝大構内などに配置し、砲撃陣地として野戦砲部隊を上野山、戦車隊を旧動物園に配備していた。

午後2時、東と北から本郷の日本軍へ連合国軍が攻撃を開始した。
上野山と旧動物園から放つ日本軍砲撃は精密で、接近する米軍歩兵部隊に打撃を与えたが、僅かな砲弾量しかなく20分ほどで砲撃は絶えた。
日本軍はここでも突撃正攻法しか攻撃方法がなく、米軍部隊に銃剣や刀のみで白刃挑んでいったが自動火器で応射する米兵の前にあえなく敗退した。
必然的に彼らは上野山方面に移動し、寛永寺近辺に集結したが、米軍の集中砲撃を受け、4時間ほどの激戦の末壊滅した。

本郷決戦と同じ頃、品川・大崎戦線の第11大隊及び第401連隊と亀戸・両国防衛の独立混成第96旅団及び海軍陸戦隊は、東京湾岸方面へ移動した。
これは帝都攻防戦開始前 “いよいの時が近づいたら海浜防衛部隊は羽田や佃島など東京湾岸へ移動し背水籠城すべし” といった作戦に添ったものだったが、向った先には東京湾を舟艇で北上し、東京港数カ所の桟橋へ強襲接岸を行い上陸していた精鋭米海兵隊及び英軍コマンド部隊が待ち構えており、交戦の末玉砕した。

21日午後4時、日本軍指揮命令系統は既に崩壊し、彷徨う兵たちの辿り着いた先はやはり宮城であった。
最終的に近衛第1師団3000と巡査隊700を中心とした合同軍残存部隊が集結したが、北進してきた米陸軍騎兵第3師団の攻撃で21日深夜、合同軍は壊滅した。

 

そして3月22日、ついに宮城大手門から第3騎兵師団が入城を果たし、宮内省庁舎に星条旗と英国旗を蒼い大空に高々と揚げ、これをもって帝都は陥落した。
最後まで頑強に抵抗を続けたのは千葉市内で闘っていた第52軍の第234師団と近衛第3師団であったが、25日における第52軍司令部の崩壊と同時に組織的抵抗が止んだ。
武装解除後の東京での日本側抵抗は、九州とは対照的で、後に終戦を迎えるまでいたって静寂で、散発的な発砲事件などはあったものの、ゲリラ戦や米軍施設への破壊活動など皆無であった。

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 この帝都陥落の2日前、つまり東京総攻撃開始日である昭和21年3月20日、日本軍全軍に対し北辺を守備する第5方面軍司令部から急電が発せられた。

それは将来の日本の運命を決定づける一大事件、ソビエト赤軍の日本本土侵攻開始の報だった。

砕氷輸送船に乗った部隊が既に攻撃目標沖へ展開済みであったため、侵攻軍の動きは迅速かつ電撃的であった。
旧ロシア帝国が旧幕時代後期、時の政権である徳川幕府と商業交易を結ぶため遣日特派したニコライ・ペトロヴィチ・レザノフの名にちなみ「ペトロヴィチ作戦」と名付けられた本作戦は、アレクサンドル・タヴゲーネフ大将率いる総勢200万のウザプリモルスキー軍(旧ウクライナ方面軍)がその任につき、赤軍先導部隊約4600の第866狙撃(歩兵)旅団が宗谷、紋別に上陸を敢行し、ほぼ同時刻には釧路へ約2000の第531狙撃旅団が上陸を果たした。
北海道を守備しているのは、帝国陸軍第5方面軍だが、全道の戦力は僅か2個師団1個旅団、歩兵2万3000しかなく、既に半年津軽海峡はソビエト極東ウラジオ艦隊によって封鎖されていて、同方面軍は補給もままならず、赤軍に対し抵抗らしい抵抗も出来ず上陸を許した。
さらに、上記三箇所とは別に翌21日、ウザプリモルスキー軍本隊が石狩湾大浜海岸と苫小牧西部に上陸。本隊は札幌、旭川、室蘭など主要都市の制圧を目指し、北海道全土の制圧はもはや時間の問題となった。

ただしこれは日本が迎える悲劇の序曲に過ぎず、ソ連軍の真の狙いは北海道よりさらに南、本州東北地方への侵攻にあり、津軽海峡並びに秋田沖、宮城沖には大部隊が集結していた。
その中には、日米開戦前にソ連へ亡命していた共産主義者、堀部彗山《ほりべ・すいざん》がおり、日本で革命を起こすべくソビエトコミンテルンの後押しで組織した日本赤旗(せっき)革命軍を率い上陸しようとしていた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(29)】