米国ハワイ現地時間1941年12月7日、同地真珠湾を拠点とする米海軍太平洋艦隊艦艇と軍事施設が日本軍航空機により突如攻撃を受けた。
ハワイは日本から3000マイル以上も離れており、極秘裡に米軍哨戒ラインを突破し、同軍勢力圏内の北太平洋海域まで進出してきた機動部隊による航空奇襲攻撃は、もはや米本土も安全とは言えないことを意味し、結果始まった日米戦争は、米国市民、特に西海岸沿岸に住む人々は「直ぐにでも日本軍が攻めてくるのでは?」という恐怖を感じたに違いない(実際には規模の大きい水上艦隊の場合、補給限界能力を超えるため不可能に近い)。
それまでのアメリカ合衆国は、1776年の独立宣言に続いて起きた米英戦争(1812~14年)で交戦国イギリス・カナダ軍から本土を攻撃(この時は首都ワシントンまでも陥落)された以外、南北戦争の内戦と対メキシコ戦争を除き国土を敵対国家から蹂躙されたことはなく、先年の第一次世界大戦参戦(1917~18年)も、遠く欧州大陸での戦いであって、恐らく米国民の大多数は中央同盟軍が大西洋を渡って上陸してくるとは夢にも思ってなかったであろう。
しかしその楽観論が第二次世界大戦が起るに至り、脆くも崩れ去り、現実に北米大陸西岸は日本軍から数度の攻撃を受けた。
ジェット気流を利用した風船爆弾など “奇想天外兵器” 1) によるものもあったが、大戦初期には帝国海軍潜水艦が北米西岸に対して攻撃を行っている。
そのうち一つの作戦に参加した艦が伊号第一七潜水艦である。
イ17潜は、巡潜乙型と呼ばれるクラスの伊号第一五型潜水艦の一艦で、昭和16(1941)年1月に横須賀海軍工廠で竣工した。
巡潜乙型は、戦前から建造が開始され大戦中期まで20艦建造された。
基準排水量2千198トン、全長108.7m、全幅9.3mという大型艦で、航続距離が14,000浬(約26,000キロ 水上で16ノット時)という長大さを誇り、太平洋のみならず遙かインド洋アフリカ大陸東岸まで長征していた。
また、艦内には水上偵察機(零式小型水偵)1機を格納でき、前方射出機(空気式カタパルト)から発艦できた。
兵装は、後部艦載砲40口径14cm単装砲×1門、25mm機銃連装1基×2挺、艦首53cm魚雷発射管×6門(九五式魚雷17本)で、大戦末期いくつかの艦は回天攻撃艦に改装され、後部艦載砲やカタパルト、格納筒を取り外し4~6基の回天が装備された。
なお、帝国海軍の潜水艦中もっとも活躍し戦果を上げたのも巡潜乙型である。
昭和16(1941)年11月21日(日本時間以下同)、イ17潜はハワイ作戦に参加すべく第一潜水戦隊所属艦(他僚艦イ25潜、イ9潜、イ15潜)として横須賀を極秘裡に出撃し、12月8日の日米開戦時、カイウイ海峡北方海域(第一潜水戦隊は後備部隊、オアフ島北方沖海域に展開)にて迎えた。
真珠湾攻撃後の12月11日、第二潜水戦隊所属艦イ6潜が、「重巡二隻、レキシントン型空母北東に向かう」を打電し、第六艦隊司令部は直ちに第一潜水戦隊4艦と第一航空艦隊随伴3艦(イ19潜、イ21潜、イ23潜)の計7艦にこれを追わせ、本土ハワイの中間海域にいた要地偵察隊のイ26潜、イ10潜が待ち伏せを行いつつ北米大陸近海まで追撃したものの発見にはいたらなかった。
そのため司令部は、これら追撃9艦を米本土近海における通商破壊作戦に切り替え、北はシアトルから南はロサンジェルスまで効率的に配置させ、結果16年末まで合計約10隻の連合国商船を撃沈せしめた。
12月14日、好餌を求めサンフランシスコ沖を南下していたイ17潜は「12月25日に米本土を砲撃せよ」という暗号電報を受け取り艦内は活気づいた。
その後、商船狩りを行いながら(戦果として商船1雷撃撃沈、油槽船1砲撃撃沈)北米大陸に近接しつつ作戦航海を続けたものの、攻撃二日前に延期命令が出され(一説にクリスマス砲撃による敵戦意高揚を恐れた)、哨戒を続けながら17年1月11日南洋諸島クェゼリン環礁の帝国海軍基地に帰投した。
2月1日クェゼリン環礁を米海軍の艦載機が来襲し、イ17潜は対空戦闘態勢を取りながら環礁を最大戦速(24ノット)で抜けだし、機動部隊の追撃に入った。
そのままハワイ方面へ索敵進撃したものの機動部隊を捕捉することは出来ず、“次の作戦命令” の電文を受けイ17潜は東に向かった。
その “次の作戦命令” こそ米本土砲撃作戦であり、艦は2月21日には北米西岸ロサンジェルス近海まで進出した。
攻撃目標は、ロサンジェルス北方、サンタバーバラのエルウッド石油製油所。
2月24日に潜航しながらサンタバーバラ海峡北側から内海に滑り込み、サンタモニカ沖で反転し日没直後の22時40分エルウッド石油製油所沖3000mで急速浮上、予め決めておいた攻撃目標(石油タンク)に対し14cm単装砲から17発の砲弾を急射した。
さすがの米軍も狼狽したようで、空襲警報を鳴らし自動車のヘッドライトが右往左往する様子が艦上から判ったという。
そしてイ17潜は、敵駆逐艦と逢いながらもこれを巧みにかわし、三戦速(約20ノット)で悠々と湾外へ脱出した。
帝国海軍は北米西岸に対し、イ17潜が行った砲撃以外にも、
- 昭和17年6月20日 イ26潜がカナダバンクーバー島エステバン岬灯台と無線羅針局を砲撃
- 同年6月21日 イ25潜がアストリアのスティーブンス海軍基地を砲撃(本土の基地が攻撃されたのはこれ以後米国では皆無)
- 同年9月9日と9月29日 アストリア砲撃と同じイ25潜が、今度は艦載機で本土を空襲(帝都初空襲の報復攻撃)
と数次の攻撃作戦を挙行した。
これら一連の米本土攻撃は、米政府や市民に与えた精神的打撃は大きく、イ17戦の砲撃に先立つ二日前にロサンゼルスで起きた “日本軍機来襲騒ぎ”(一種のデマ騒ぎ事件だが、米軍は対空砲まで撃ち込んだ。真相は不明)と相まって大戦初期の西海岸に住む人々は日本軍上陸に恐怖を感じていた。 2) しかし昭和18年以降は、戦域が中部太平洋に集中し、潜水艦部隊を遙か北米まで遠征させる余裕もなくなり米本土攻撃は行われなかった。
イ17潜はその後、通商破壊戦などを行いながら太平洋各地を転戦し、昭和18(1943)年8月19日、ニューカレドニアヌーメア湾にて敵基地をから飛び立った航空機による爆撃を受け搭乗員97柱とともに海中に没した。
なお20艦建造された巡潜乙型のうち、終戦まで生き残ったのは17番艦イ36潜のみでイ17潜とともに米本土を攻撃したイ25潜とイ26潜も含めた他19艦は事故もしくは戦役で海に沈んだ。
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1) 昭和19年10月頃より実施された「ふ号作戦」と呼ばれるもので、対ソ戦用に研究されていた気球兵器を基礎に計画を具体化させ米国へ攻撃敢行した。日本では一万メートル上空を吹く強偏西風(ジェット気流)の存在が早くから知られており、その気流に焼夷爆弾を懸吊させた気球を北米大陸に向け放球した。最終的に約1万球飛ばしたが「戦果なし」と判断され昭和20年3月に中止された。なお自然推進力を使い、気圧計とバラストによる高度保持装置まで備えた「ふ号」は無誘導兵器ながら多数が米本土にまで達し、必ずしも奇想天外兵器とも言えない。
2) 「日系人の強制収容」という負の要素も米国に与えてしまったとも言える。
引用参考文献:
(1)『伊17潜奮戦記』原 源次 朝日ソノラマ、昭和63年3月15日発行
(2)『伊58潜帰投せり』橋本 以行 朝日ソノラマ、昭和62年1月16日発行
(3)『幻の秘密兵器』木俣 滋郎 光人社、1998年8月15日発行
(4)『別冊歴史読本第18(414)号 日本海軍軍艦総覧』新人物往来社、1997年7月18日発行
(5)『別冊歴史読本第36(333)号 太平洋戦争戦闘地図』新人物往来社、1996年2月19日発行
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- イラスト類は、複数の参考文献を基に私imakenpressが作成してます。よってディテールやスケールなど正確性に欠けます。
- 帝国海軍潜水艦の名称について、呂号第五〇一潜水艦、伊号第五八潜水艦といった呼称もしくは表記が正式な用い方ですが、本記事中では当時からの俗称、略称であったロ501潜、イ58潜といった表記も併せて行っています。