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山河残りて草木深し―日本本土決戦(12)

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昭和20年も残すところ一ヶ月あまりとなっていた。神州大日本帝国は、本土への敵侵攻を食い止めることはできず、果ての見えない戦いを続けていた——

南九州全域が連合国軍により掌握されるのはもはや時間の問題となった。そして米軍は、日本本土侵攻作戦を次のステップへ進めようとしていた。同じ頃、北からソ連軍が北海道へ侵攻する構えをみせその牙を覗かせていた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■神山燃ゆ 1

度重なる空襲によりその軍事基地としての機能をほぼ失っている呉軍港。
その軍港からほど近い瀬戸内海に浮かぶ通称「鬼結島《きけじま》」に本土防衛用として設けられた海軍秘匿基地がある。
そこには独海軍を模し巧妙にカムフラージュして造られたコンクリートブンカーに「蛟龍」「海龍」など “水中決戦兵器” や稼働可能な潜水艦部隊が多数係留されていた。
戦艦や空母ほか大多数の戦闘艦艇を損失していた帝国海軍最後の “艦隊” がそこにはあり、唯一つの実働艦隊であった。

11月24日夜が明ける前の小雨舞う中、鬼結島基地から伊号第五八潜水艦(以下帝国海軍潜水艦表記は「イ58潜」などと表記)を旗艦に据え、以下最新鋭のイ201潜、イ203潜、イ204潜の四艦からなる大艦隊が出港していった。
この艦隊司令はイ58潜艦長兼で歴戦の橋本以行《はしもと・もちつら》中佐がその任に能った。
橋本中佐はかつてアイダホ級戦艦(実際には重巡インディアナポリス)を雷撃により撃沈せしめるなど大殊勲を上げた戦歴を持つが、同時に多数の特攻隊を送り出した苦い経験もあった。
しかし今回の作戦は特攻作戦ではなく、高速艦を引き連れその一撃離脱能力を最大限に活かした敵艦隊への打撃が最大目標であるため、その気合いの入れ方は並々ならなかった。

「命を散らした若者に報いるため…」

その思いを心に秘め、敵機雷網をくぐり抜けつつ艦隊は瀬戸内から外洋へと出撃していった。

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板倉弦二郞は、第424連隊の部隊に合流し、もはや原隊復帰は困難となっていたため同連隊「照輝《しょうき》隊」―原口部隊にその身を置いていた。
照輝隊は原口岩雄《はらぐち・いわお》少佐指揮の遊撃部隊で、本作戦中編成された特別部隊で臨機応変に敵と戦っていた。
原口少佐は、大尉時代に南方激戦区を戦い抜いた猛者で、奇抜で型破りな戦法の名手として敵から恐れられていた。
元々華族の出ながらも、陸軍後方勤務要員養成所(後の中野学校)で特殊任務を学び、戦前は陸軍でも数少ない米国赴任経験を持っていた。
米国では諜報活動の一環として数多くの人脈を築いていたが、日米関係悪化の一途をたどる昭和16年4月に政府の命令を受け帰国した。
その後日米開戦に先立ち、陸軍大尉として同年7月に仏印サイゴンへ赴き、通称 “原口工作隊” なる後方攪乱を任とする秘密部隊の指揮を執った。

初め部隊は、現地人ゲリラ育成や政治的プロパガンダ工作、破壊活動を行っていたが、戦局の悪化とともに戦闘遊撃隊へその主任務を変えた。
そして、来たるべく本土近傍での決戦に備え、内地への異動命令が発せられ、乗船した輸送船が途中撃沈されるも昭和20年3月に帰国した。
戦場となりつつあった沖縄での遊撃任務を託されるが、沖縄への渡航は既にできず本土決戦部隊の第424連隊への配属となった。
照輝隊には、原口工作隊時代からの少佐腹心であった美濃都《みのと》少尉と米田特務曹長の二名を半ば強引に呼び寄せ今に至った。

弦二郎は、米田特務曹長が仕掛ける罠の手伝いをしていた。
先のブラウン軍曹らB中隊が一撃を喰らった自動車爆弾は、米田により仕掛けられたものだ。

「曹長は罠の仕掛け方をどこで教わったのですか?」

弦二郎が訪ねた。

「ふっ、そうだな。餓鬼の頃、故郷岡山の山中で鹿を捕まえるため仕掛けたのが最初だな」

もちろん嘘だが弦二郎は米田の経歴など知るよしもないのでそのまま言葉を鵜呑みした。

本土決戦部隊として急造された第424連隊だったが、原口少佐と日米開戦前から昵懇であった連隊長の風岡喜市郎《かざおか・きいちろう》大佐は早くからゲリラ戦術の可能性を少佐と研究し、本土決戦にあたりそれを実戦に応用していた。
これは精神面を最重要視している現政権(『神州大日本帝国』とこの頃から名乗っていた)とは相反してはいるが、時局は既に “最前線” 九州南端まで中央政府、参謀本部の意向や指導は全く及んでおらず、現地軍、部隊の裁量に委ねられていた。

弦二郞とともに、宮崎戦線からやってきた山岸俊介上等兵は、ゲリラ戦を主体とする第424連隊に不満を持っていたが、他の選択肢はないため行軍をともにしている。
そして24日夜、強行偵察隊が突き止めた敵露営地に、少数部隊が夜襲を仕掛けることを知るや、自らも参加を希望し叶った。

「じゃあな、板倉。敵さんにお見舞いだ。宮崎の仇だぜ」

と弦二郞に言い残し、他の隊員とともに夕刻本隊から離れた。

だが、山岸たちは翌朝になっても合流地点へ帰投してこなかった。

 

11月25日、九州は冷たい秋の雨となっていった。
この日10時、日本軍第57軍総司令前田貢中将は、全軍をあげ一斉反撃の指示を出した。
岩陰や木々に隠し、爆撃と砲撃に耐えていた数十箇所の秘匿壕砲口から、大砲や機関砲が火を噴いた。

米軍も硫黄島《いおうとう》の教訓から沈黙後の反撃は予測はしていたが、樹木のない火山島と違い、霧島山地に日本軍が築いたトーチカの位置や個数の把握がし難かった上、悪天候が災いし、前線では混乱が生じた。
また、長距離砲や噴進砲(ロケット弾)まで日本軍は温存していて、それらの砲撃が正確に米軍占領下の鹿児島基地や隼人、人吉にまで達していた。
国分の前線幕営地にいたクルーガー中将もさすがに面食らい、悪天候にもかかわらず錦江湾に臨戦停泊している空母の艦載機による局地攻撃を海軍ハルゼー提督に電話無線で直接要請し、ハルゼーは「いつでも出撃準備はできてるぜ!」と返答し快諾した。

天候不良時の艦載機発艦と作戦任務は危険を伴うが、新型艦上爆撃機BT2D “デストロイヤーII(後に攻撃機AD-1 “スカイレイダー” と改称)は、多少の雨風ではたじろぎもしない。

それまでの1900馬力TBF/TBMアベンジャーを遙かに上回る2800馬力高出力エンジンを搭載し、さらに機動性と操縦性も高い機体で乗機に保守的となりがちな搭乗員からは早くも絶対的な信頼を得ていた。

そのBT2Dが、大胆にも護衛戦闘機なしで出撃していった。
機動性に優れたBT2Dは、20mm機関砲も4門備え高レベルの空戦すら可能とされていた。
程なくして戦域に到着した攻撃部隊は、日本軍が放っていたトーチカを特定していき、危険高度すれすれの低空まで降下し、爆弾もしくはロケット弾で砲撃陣地をしらみつぶししていった。

もはや最期の刻と判断した前田中将は、歩兵部隊による突撃攻撃を命じ、14時に開始した。
中将自らも白襷を締め抜刀。参謀立花大佐ら幕僚とともに司令部壕から出て、集成1個旅団とともに南敵陣に迎かった。

死を覚悟した第57軍将兵の捨て身玉砕戦がまたしてもこの南九州で始まろうとしていた…。

——

 

その頃ソビエトでは、満州朝鮮半島に展開していたザバイカル軍の他に、対独戦を戦ったウクライナ方面軍が、新たに総勢200万のウザプリモルスキー軍として再編成されていた。
同軍は総司令官にアレクサンドル・タヴゲーネフ大将を据え、シベリア鉄道を使い続々とウラジオストックに部隊を集結させていた。
そして既に一部は間宮海峡を渡り、占領南樺太豊原まで進出しており南下する構えを見せていた。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(13)】