こんにちは、imakenpressと申します。

山河残りて草木深し―日本本土決戦(11)

〈目次へ〉

クーデターにより樹立した大日本帝国新政府は戦争継続の道を選び本土で連合国軍を迎え撃つこととなった——

霧島山地。日本神話の舞台でもあるこの神々しき深山に弾雨が降ろうとしている。昭和20年11月半ば、霧島に布陣した第57軍主力と、四方から攻めようとする連合国軍との間で決戦の時を迎えようとしていた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

—–◇————————

■決戦、霧島山地 3

進行方向の山道に乗り捨てられた日本軍の車両が姿を現した。
搭乗員が去った直後のようだった。

英兵はジープと叫んだが、もちろんジープではない。
よく戦場では対戦国の兵器を鹵獲《ろかく》し自軍用に改修運用《カスタマイズ》するケースがあるのだが、この車両はジープに先駆け四輪駆動を採用した日本製で “くろがね” の愛称を持つ「九五式小型乗用車」だった。

エンジンはかかったままだ。

3名の英兵が 興味本位で “くろがね” へ近づいていった。
中隊長エリック中尉は命じていない。

背のひときわ高い英兵の一人が言った。
「へっへへ、ジャップス、我々の先遣隊の攻撃にしっぽを巻いて逃げたな」

そして、もう一人の英兵がドアに手を掛けようとした。

反射的にブラウン軍曹は左手を大きく横に振り、

「やめろっ、下がれっ!」

と大声で叫んだ。

瞬間、“くろがね” は轟音とともに爆発した。

その場に居た全員が伏せた。

いわゆる自動車仕掛け爆弾《ブービートラップ》だ。

3人は即死だった。

この爆発が合図だったかのように数方向からB中隊は射撃を喰らった。

パッパッパッパッパッ—-

乾いた音が砂利道を叩き砂塵が舞う。

「ドットサーティーだ!」

マークが言った。
その音から、米軍M1カービンで使われている.30(7.62mm×33)弾丸で、まさか敵軍がそれを射撃してきているなんて思いもしなかった。

傍らにいたブラウンは、愛銃の同じカービンで直ぐさま発弾方向に応射した。

「鹵獲銃だ。どっかでガメられたカービンだ。トラップといい、奴等手強いぞ!」

マークもガーランドを撃つ。
二回目の戦闘なので今度は慌てていない。

銃撃戦となった。

日本軍は姿を見せないが、数方向から撃ってくる。

日本製の単発ライフル弾も放ってくる。
さっき聞いた銃撃音は敵軍の攪乱だったのか…

中隊長エリック中尉は、隊員にライフルグレネードの砲撃を命じ、敵弾射軸めがけM9弾を撃つ。

日本軍の居ると思われる茂みに着弾し炸裂した。

うわーっ という呻き声と共にその方角からの銃声が止んだ。

それと同時に日本軍部隊は引いたが、中隊の犠牲も大きかった。

——

 

米軍の総攻撃開始二日目11月23日、日本軍霧島陣地に対する砲撃は容赦なく続いていた。
第57軍はじっと耐えている。
その間にも、米地上攻撃軍は陣地に向け駒を進めていた。

山岳地帯に構築されている陣地を攻めるには、その地形上戦車や装甲車、自走砲など支援車輌を走らすことが出来ないため、近代兵器を多数有する米軍といえど歩兵を主体とした戦闘部隊を攻略に充てるしかない。
その主力は南正面から進撃している陸軍第9軍団3個師団であり、日本軍もそれを承知していて、守備軍の大半を南に配置していた。
しかし、正面主力部隊は陽動としての役割も担っていて、手薄になっている北部から硫黄島戦などでその力をいかんなく発揮した、“地上最強の陸兵” こと海兵隊部隊第5水陸両用軍団が攻めていた。
海兵隊は、正式には海軍所属の上陸軍だが実態は地上軍そのものだ。
しかも隊員は、苛酷な訓練を受けた志願兵で占められ召集兵は基本的には配属されない。
自由と平等の国、合衆国で生まれ育った海兵隊員だが、上官への絶対服従と集団主義、それに徹底した修正教育(体罰を含めた肉体的苦痛による人格 “修正”)を受けた彼ら “Marines” ―海兵隊員 はある意味、日本兵以上に軍人精神を叩き込まれた “Machines” ―機械兵士 だった。
その海兵2個大隊が北側から強襲攻撃を仕掛け、次々と日本軍防衛拠点を殲滅していった。
今次大戦当初、日本軍(特に陸軍)はその存在を知っていながらも「海兵に銃が撃てるか」と舐めて掛かり手痛い目にあった。
この霧島の戦いも戦訓が活かされないでいた。
また米陸軍も「海兵隊に負けてたまるか!」と、精鋭第101空挺師団を西側日本軍防衛線攻略に投入し、日本軍を撃破邁進していた。

この山岳作戦は、九州侵攻オリンピック作戦総司令官であるウォルター・クルーガー中将が当初考えていた以上に大規模な戦闘となった。
初めは、南九州一円の日本軍残党をすべて霧島など山岳地帯に追いやり、攻囲戦を行いつつ時間を掛け小戦力にて掃討をするつもりだったが、予想以上に敵戦力が霧島山地一帯に集結し、存在を無視できなくなり “サツマの秋嵐作戦” を南九州要衝占領後即座に遂行せねばならなくなっていた。

さらに米国には霧島を速やかに陥とし、南九州全てを遅くても1945年中に占領掌握しなくてはならない事情があった。
それは、オリンピック作戦の次に控えるコロネット作戦、即ち関東侵攻作戦の発動をフィリピンマニラにある連合国軍司令部(もはや世界中の国と敵対しているのは日本だけとなり、司令部機能は極東であった)ダグラス・マッカーサー元帥が現地時間11月20日付けで正式に発令し、元帥自身とともに米軍大部隊の移動を開始しようとしていたためだった。
コロネット作戦はオリンピック作戦終結時点での日本政府の出方次第では発動しない方針であったが、連合国陣営の動きの中で、ソビエトが独自に日本本土侵攻を行う可能性大との情報を米政府はキャッチし関東侵攻を決意した。
事実スターリン書記長はこの時、満州、朝鮮に傀儡共産国家建設を示唆していて、満州へのモンゴル軍駐留や北部朝鮮を拠点に抗日運動をしていた金成一(別名 “白頭山将軍”)を朝鮮の指導者として祭り上げるなど、したたかかつ大胆にその準備を行っていた。

 

11月23日の夜となった。
電力が少なく、灯火管制もしている九州は、連合国軍占領地域を除き夜は暗い。
だがこの日の霧島韓国岳周辺は、まるで火山が噴火を起こしたかのように真っ赤に燃えていた。
もちろん戦《いくさ》により灯された炎《ほむら》である。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

←前話へ戻る

―続く― 【日本本土決戦(12)】