こんにちは、imakenpressと申します。

山河残りて草木深し―日本本土決戦(10)

〈目次へ〉

クーデターにより樹立した大日本帝国新政府は戦争継続の道を選び本土で連合国軍を迎え撃つこととなった——

霧島山地。日本神話の舞台でもあるこの神々しき深山に弾雨が降ろうとしている。昭和20年11月半ば、霧島に布陣した第57軍主力と、四方から攻めようとする連合国軍との間で決戦の時を迎えようとしていた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

—–◇————————

■決戦、霧島山地 2

11月20日、第57軍司令部は、霧島山地韓国岳《からくにだけ》西方に構築した陣地に布陣していた。 南九州各地から集結した総兵力は1万2000人ほどだ。総司令、前田貢中将の祖父は薩摩藩下級藩士の出身で二十歳のとき同郷の川路利良《かわじ・としよし》らと共に戊辰戦争へ従軍。北越、箱館(函館)と転戦しその後、御親兵となり軍人の道へ進んだ。
10年後の西南戦争時には、陸軍少佐として同胞薩軍と戦火を交えることになり、城山包囲戦も攻城軍として参加していた。
皮肉なことに、孫の前田中将はまるで西郷南洲と同じように南薩の山中で敵を待ち構えるかたちとなっていた。

「敵の動きはどうか?」

前田が参謀の立花大佐に問うた。

「現在敵野戦軍主力は、隼人、国分に展開中です」

さらに、

「海軍鹿児島基地は完全に敵の手に落ちました」

と述べた。

この20日の時点で、米軍は初期の目標であったSTライン以南の占領、すなわち鹿児島川内と宮崎都濃を結ぶ線まで進出を完了していた。
更にそのSTラインより北に当たる阿久根、出水、水俣、人吉も海兵隊第5水陸両用軍団が制圧していた。

では南九州以外の日本軍はこの前後どういった動きをしていたのか?

米軍は昭和20年9月末より、空と海から九州を中心とした西日本一帯に徹底した反復攻撃を行っていた。
これまでの日本本土に対する爆撃と艦砲射撃は、都市部への無差別焦土攻撃ではあったものの、鉄道などインフラ関係の破壊は戦後の自軍利用を考慮し、極力攻撃対象から外していた。
しかし、日本本土侵攻であるダウンフォール作戦に際しその自制を解除した。
完成して間もない関門トンネルをはじめ、九州内のありとあらゆる陸上交通路を破壊し、海上もまた豊後水道、関門海峡など主要海路は海軍艦艇により完全封鎖。九州を本州から分断した。
この状況下で西日本防衛を担う第2総軍司令部は第15方面軍(第55、59軍)など温存されていた本州兵力を九州方面へ差し向けることが出来なかった。
さらに同じ九州内福岡に司令部を持つ第56軍(総兵力約3万)は、朝鮮半島全土を完全制圧しているロディオン・マリノフスキー元帥旗下、ソビエトザバイカル軍150万と朝鮮海峡を挟み対峙しており、いつでも北部九州へ上陸しようとしているソ連軍の前に身動きが全くとれなくなっていた。
そのため11月15日に急遽編成し南下させた大前重郎少佐指揮の1個大隊(大前支隊)のみしか援軍は出せなかった。
しかしながらこの大前支隊も19日に白石で会敵した米海兵隊に破れ大前少佐以下大多数の将兵が戦死し、支隊は壊滅敗走した。
なお九州内には他に第40軍が鹿児島伊集院にあったが、昭和20年10月末第57軍に統合されている。
また、第5航空艦隊など九州内の海軍航空隊は、特攻部隊以外、敵の本州進撃に備え四国松山基地もしくはその他西日本基地航空隊へ転出準備を行っていた。

 

11月22日午前4時、日本軍霧島陣地に対し重砲と空爆による米軍の総攻撃が始まった。
連合国軍作戦名、Operation Autumn storm of Satsuma―サツマの秋嵐作戦。

その陣地周辺には蟻一匹出られないほどの大軍で包囲していた。


北部人吉から海兵2個大隊が、東からは第1及び第11軍団2個師団及び1個旅団、南正面隼人方面から主力第9軍団3個師団及び第101空挺師団3個大隊と英国陸軍日本遠征派遣軍1個大隊の総兵力にして約10万が霧島山地に布陣していた。
数にして日本軍の約10倍以上の兵力を誇った。
さらに空からは陸軍第20航空軍のB-25隊と海軍のBT2D艦爆部隊が支援攻撃に加わった。

この時、板倉弦二郞と山岸上等兵は、霧島陣地の所在など知るよしもなく、陣地より数十キロ西に別働展開中の第424連隊に偶然合流しその指揮下に入っていた。
連隊は第101空挺師団と数日前から交戦していたが、巧みなゲリラ戦術により攻撃をかわし後方攪乱と陽動を行っていた。

弦二郞はむやみな玉砕戦や突撃を好まない連隊長とその参謀に対し、初めは違和感を感じたものの、日を追う事にまた違った感情をもった。

「こんな戦い方があるんだな」

改めて感心した。

その戦い方は、
敵を森の中まで引きつけ、別部隊が挟撃する。
夜襲を仕掛けるにしても、銃剣突撃ではなく、九九式軽機や擲弾筒をもって敵懐近くで攻撃、深追いせず引き上げる。
さらには、
敵の進出を予測した地点に、落とし穴に竹串を刺した罠を仕掛けたりもした。

弦二郞より三、四つ年上の山岸は北支戦線で戦った戦歴があり、逆に敵のゲリラ戦術に悩まされた経験を弦二郞に語っていた。

「俺たちが支那で戦っていたとき、土産になりそうな珍しい瀬戸物や武器を拾い上げるとよくドカンってなる仕掛け爆弾があった」

罠は戦国時代に忍びの者がよく用いたやり方だが、現代の戦争でも珍しいものではなく有効な戦術だった。
しかし山岸は敵陣への突撃敢行を行おうとしないこの連隊の方針がどうにも理解できないらしくことある事に突撃すべきと意見を述べていた。

第424連隊は敵の総攻撃が始まった22日も陣地支援には向わず、逆に西から敵主力後方に回り込むべく移動していた。

——

 

第43歩兵師団第3大隊B中隊は、主力の一部として第101空挺師団、英軍ロイヤル・スコッツ連隊とともに陣地南西から進撃していた。
欧州戦でも先陣を切った101師団は屈強の連中で、ブラウン軍曹は最大限の信頼をもって接していたが、同盟国英軍兵にはそのような感情は抱いていない。

当事者以外ではあまり知られていないことだが、米英軍は伝統的に仲が悪い。

共同作戦など取るときはいつも指揮権などでもめる。
そして英兵が米兵に対し、

「同盟国が奮戦してるのに参戦遅れやがって、ヤンキは戦争よりベースボール優先なのさ」

など事あるごとに口にする。すると米兵は。

「欧州戦で助けてやったのは俺等だ。そんときジョンブルどもティータイム中だったぜ」

など言い返す。

しかもジョークや皮肉ではなくお互い本音だから始末が悪い。

ただ対日戦は名目上 “連合国軍” として戦っているのだが、実質的な作戦主導権は米軍が握っているため、このオリンピック作戦―サツマの秋嵐作戦ではスコッツ連隊は米軍の指揮権に入る。
B中隊も英軍1個小隊と行軍を共にする。

第43歩兵師団司令部は霧島陣地西方に強力な日本軍部隊がいると偵察隊から報告を受けており、その殲滅のためブラウンたち第3大隊と第101空挺師団第187歩兵連隊第1大隊があたることになり、空挺部隊が先行して索敵しそれにB中隊も続いていた。
北方約5 キロにある日本軍霧島陣地に対する砲撃音がする中、マークも霧島の山中を小銃《ガーランド》を構えながら進む。

石坂川上流部を北西に延びる幅員4メートルほどの山道に出たとき、銃撃戦音が響いた。
小隊は開けた山道から左右の草木茂みに展開し身を伏せる。

敵か。

銃声音の一方は、その特徴的な音から友軍の.30カービン弾であることはマークもすぐに判ったが、もう一方は7mmクラスのボルトアクションライフル音で日本軍の小銃音らしい。

ブラウンは一言、

「近い」

と言った。

マークも童貞を失って ―銃弾による洗礼― いるため冷静だ。
戦争とは不思議なもので、どんなに臆病な兵隊でも、戦闘を二度三度経験した後、トランス状態となる。

近くで爆発音が響いた。

「敵だ!」

マークは咄嗟に思った。

明らかに擲弾筒《グレネードランチャー》の着弾音で、日本軍のものだ。

その時、ガソリンエンジン音が聞こえた。

「ジ、ジープだ! ジャップのジープだ!」

前方の英兵の一人が声を上げ叫んだ。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

←前話へ戻る

―続く― 【日本本土決戦(11)】