クーデターにより樹立した大日本帝国新政府は戦争継続の道を選び本土で連合国軍を迎え撃つこととなった——
昭和20年11月1日南九州一帯に米軍が大挙上陸した。迎え撃つ帝国陸海軍は、“決戦兵器” を次々に投入するも所詮、焼け石に水であった。そして舞台は九州内陸へと進む。
※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。
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■日本軍敗走
「硝煙陽ヲ堕ツ、バク音ニ消ユ秋虫ノ唄」
これは国鉄宮崎駅近くの崩れかけた土塀に書かれていた血書《ちがき》の落首で、誰が何のために書いたのかは判らない。
猛攻をかける米軍の砲爆撃により、戦前の美しい宮崎市の姿はそこにはなかった。
宮崎攻防戦は、文字通り南九州における天王山の戦いであった。
死守しているのは、第154及び156師団である。
総兵力は2万人ほどだが、本土決戦に備えた急造師団であるため、練度の低さは否めなかった。
しかしながら将兵は果敢に戦っていた。
また、それら正規軍の他に「國民義勇戦闘隊」や市民兵も多く市内に留まっていた。
11月3日正午、米陸軍第8騎兵連隊第3歩兵大隊と第11戦車大隊は激戦を極めた新別府川北岸地区を突破し、宮崎市内中心部へ進撃した。
また北からは第12騎兵連隊第1大隊、第3旅団特別任務大隊が宮崎神宮の南にまで進撃し、大淀川南岸地区は、青島海岸へ上陸していた第35歩兵師団3個大隊と混成戦車部隊が迫った。
そして、その後三日間、日米で一進一退の死闘が続いた。
持てる物量すべてを使い、死にものぐるいで攻撃を仕掛ける日本軍。
次々と補給物資を揚陸させ、日本軍の数十倍単位の物資をもって攻める米軍。
地獄の方がましとも言えた。
瓦礫に倒れている少年。生死を境にしている。
米兵は親切心から水筒《キャンティーン》を差し出す。
だがその瞬間、少年の背中にくくりつけられた平たい木箱が炸裂し、米兵もろとも粉々に吹き飛ぶ。
また、路に落ちていた古刀を拾い上げようとした瞬間爆発が起り、右手を失った米兵。
屍《しかばね》の山から突如銃剣を持った日本兵が現れ、腹を刺された米将校。
捨て身の日本兵の前に、米軍兵士たちも次第に尋常ではなくなっていった。
投降した日本兵を遊び半分に射殺する米兵。
市外に逃げそびれ、防空壕に隠れ潜む民間人家族に向け火炎放射器を浴びせ焼き払う米兵…
もはや義戦でも、聖戦でもなかく、ただの殺戮しあう修羅場でしかなかった。
宮崎守備隊合同司令部は、半壊している宮崎県庁庁舎に置かれてたが、既に米軍により包囲されている。
籠城しようにも術はなかった。
7日夜、市内各地で玉砕戦が始まった。
至る所で突撃敢行が行われ、数多の命が宮崎の地に散っていった。
板倉弦二郞ら歩兵第455連隊も、夜陰に紛れ小隊事に米軍部隊向け突撃を開始した。
弦二郞は脇腹に爆薬を詰めた壺をくくりつけ、他の将兵とともに目下の敵陣へ走った。
闇夜に閃光が走る。
敵の放ってくる機銃弾だ。
日本兵は次々と斃れていく、そしてその屍を踏んで後方からまた出て行き斃れる。
弦二郞が敵陣へ迫ろうとしたその瞬間、前方で大きな炸裂があった。
咄嗟《とっさ》に身を隠した。
敵機の爆撃により投下されたであろう不発弾が誘爆したかに見えた。
しばらくして弦二郞が半身を上げ、改めて付近を見渡したが、砲声は至る所で轟いているものの敵兵の姿はそこにはなく、戦友の物言わぬ姿だけが月に照らし出された映った。
その時、左後にある建物の方角から小声が聞こえ、弦二郞を呼んでいる。
「オーイ、生き残りは貴様だけか!」
「そのようだ」
闇夜に向かって弦二郞も小声で答える。
官姓名を聞くと、同じ455連隊別小隊の兵で、山岸上等兵と名乗った。
山岸が言った。
「連隊長は戦死した」
さらに
「宮崎の守備隊司令部も壊滅した」
と言った。
「上等兵殿、俺たちはこれからどうすれば…」
弦二郞が訪ねた。
「南に突破口があり、そこを抜け鹿児島方面の友軍に合流する」
弦二郞は現況をよく理解していないが、アテもないし無駄死にも御免と思い山岸に従った。
山岸の言ったことは本当で、宮崎守備隊司令部は壊滅し、司令や参謀たちは生死不明となり11月8日をもって組織的戦闘は停止した。
宮崎市内のゲリラ戦はその後、終戦に至るまで止むことはなかったが、この数日間で、実に1万6000人の日本軍将兵と義勇戦闘隊、それに3000人以上の一般市民が宮崎・日南地区だけで死亡した。
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日本軍宮崎守備隊の壊滅した8日、米陸軍は鹿児島市と海軍鹿屋基地に対し空挺作戦を敢行すべく、沖縄から輸送編隊を飛ばした。
作戦にあたるのは第101空挺師団の第187歩兵連隊を主力とした最精鋭の歴戦部隊だ。
空挺輸送隊の周りには、無数のハルゼー旗下海軍戦闘機部隊が取り囲んでいる。
もちろん、日本軍は指をくわえてただ待っていたわけではなく、迫る敵輸送機群にむかい、鹿屋海軍部隊と知覧陸軍部隊から稼働可能な戦闘機隊を飛び立たせたが米海軍による直援機の前に全て撃墜されてしまった。
鹿屋以外、大分基地からも戦闘機隊が飛び立っていた。
虎の子、大分海軍航空隊の紫電改部隊である。
木場敬一飛曹長は、待ってましたと言わんばかりに南薩の空に舞っていた。
宮崎攻防戦の初戦では出撃許可が出なかったため、敵の九州上陸開始から初めての空戦を挑むこととなった。
都城上空にさしかかろうとしたとき、早速会敵した。
雲の隙間から現れたF8F ベアキャット6機だ。
木場は自動空戦フラップを使う。
これはフラップを空戦時自動的に可動させることで機体旋回能力が上がり、結果格闘性能を飛躍的に向上させることのできる画期的な装置で、紫電改(紫電二一型)の特徴の一つだ。
ベテランでは装置の使用を嫌う者もいたが木場は装置を使う。
「おいでなすったかいベア公さんっ」
F8Fはそのずんぐりした体躯に似合わず機動性と運動性は高い。
しかし木場の紫電改は、敵機を有視界で捕捉し、ものの数秒でその6機の尻に回り込んでいた。
F8Fもすぐさま応戦すべく散開したが、挙動を遅れた1機を木場が20mm機銃を浴びせ撃墜した。
他3機は不幸にも別の日本軍機隊真正面に出てしまい、正面から機銃を浴び墜ち、残り2機が木場に巴戦を挑んできた。
米軍機は大戦初期、速力と運動性の優れる零戦の前にひれ伏せるしかなかった。
しかしながら、アリューシャンで無傷の機体を手に入れるやその弱点である脆弱な防弾構造などを見抜き、さらに航空格闘戦を行うときの戦術も編み出した。
その戦術はサッチウィーブ戦術と呼ばれ、対日本軍機戦を行う場合一対一で格闘せず、友軍機2機をもって日本軍機の死角を突くというもので、これが功を奏した。
1機のF8Fが木場の右後方に回り込み、機銃を撃ってきた。
銃弾は紫電改の主翼をかすめた。
木場はすかさず敵機の進行を予測しつつ上方回避急反転した。
F8Fの真上に出た。
再び20mmを下方射撃しF8Fの左主翼を打ち抜いた。
あっという間に米軍機は九州の山中に落下していった。
「畑とか家に落ちるなよ」
木場は機上囁いた。
そして残り一機は後方に去った。
木場たち海軍のエースが最新鋭機を駆り善戦していたものの、戦局はまるで決められた時間割のごとく進んでいた。
8日の正午過ぎには鹿児島市及び鹿屋一帯に米陸軍空挺隊が作戦を開始。
大量の落下傘の花が南薩の空を埋め尽くした。
敵の電光石火とも言える進撃の前に、司令部と残存軍は鹿児島市内から転進を余儀なくされ、霧島山地を主戦場と定め転進を開始した。
しかしこれは米軍の予測通りで、オリンピック作戦の決戦は霧島山地へと舞台が移ろうとしていた。
(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです
―続く―【日本本土決戦(9)】