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山河残りて草木深し―日本本土決戦(7)

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クーデターにより樹立した大日本帝国新政府は戦争継続の道を選び本土で連合国軍を迎え撃つこととなった——

昭和20年11月1日南九州一帯に米軍が大挙上陸した。迎え撃つ帝国陸海軍は、“決戦兵器” を次々に投入するも所詮、焼け石に水であった。そして舞台は九州内陸へと進む。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■死闘、宮崎攻防戦

宮崎海岸に殺到した米陸軍第6軍は、先陣部隊が思わぬ苦戦を強いられたものの、屈強のタフガイたちは戦友の屍を乗り越え次々と上陸を果たした。

米軍としては、機械化部隊を含めた大規模な戦闘部隊の先遣上陸と、その後の輸送船団による補給物資を容易かつ迅速に揚陸させることのできる宮崎海岸の確保は、是が非でも必要であった。

帝国陸海軍は本土決戦に備え、昭和20年春頃から日本列島全体を針鼠のようにし、要塞化することで連合国軍の上陸に迎え撃つ準備を進めていた。もちろん列島全体を城壁で囲むことなど不可能であり、敵上陸の可能性が最も高い箇所に重点防衛体制を整えてきた。

九州地区では宮崎海岸が地理的に最も上陸適地であると判断され、昭和20年9月までに清武・加江田川河口青島地区から大淀川を挟み耳川河口権現山まで約75キロに及ぶ広大な日向灘に塹壕と坑道を開削し、5~10キロおきに海岸陣地を8箇所設け、さらに無数のトーチカを構築。砂浜や浅瀬には、鉄条網や鉄索、地雷をばらまいていた。
ただ、その塹壕と坑道によって部隊展開をスムーズにさせてしまったことが、先の伏龍隊移動を容易にし逆に不幸な結果となったのは皮肉としか言いようがない。

伏龍隊の展開や重機関銃による点射撃を試みた日本軍ではあったが、物量に勝る米軍の前にトーチカは一つずつ掃討され沈黙した。塹壕後方には、重砲隊陣地もあったが空爆によりすでに大半を破壊されていた。
この日向灘要塞を守備する第156師団は、玉砕の覚悟をもって能《あた》っていたが、敵の圧倒的物量戦の前に打って出ることすらできない状態であった。
板倉弦二郞二等兵ら第455連隊歩兵部隊も、当初敵上陸部隊に強襲攻撃を敢行する筈だったものの、現地軍である第57軍(第2総軍第16師団隷下)から第156師団への命令により、海岸陣地から宮崎市内へ転進を行った。
その他の連隊や海軍部隊も順次宮崎市内へ退き、主戦場を南北に長い海岸地帯から拠点防御へ日本軍は作戦変更を行った。
そして11月1日夕刻までに、米第一軍団先遣隊は戦車部隊を含めほぼ全ての上陸を終え、周辺陣地の制圧完了をもってその日の前進を中止した。

宮崎市内では市民のうち、老婦女子は九州北部や本州への疎開を完了していたが、国家主導のもと、全国規模で組織された16歳以上50歳未満の男子から構成された「國民義勇戦闘隊」の宮崎隊約1万5000人が市内要所に配置され戦闘態勢を整えていた。
もっとも、戦闘隊と言っても手に持っている武器は少年なら竹槍や弓矢、大人でも良くて猟銃か日本刀、それ以外の者は火縄式の急造銃を手にしていた。また義勇隊以上の年齢に達している者たちでも、退役軍人会を中心に民間自警隊を組織し、家事道具や大工道具、古式武具などを手にし市内にとどまり米兵と差し違えようとしていた。
その光景を目のあたりにした弦二郞は目頭に熱いものを感じていた。

同じ頃、帝都東京。
政府と軍の中枢は長野県松代への移転がほぼ完了していた。
内閣総理大臣、白谷藤一郎《しろや・とういちろう》も、米軍九州上陸のその日午後に首相公邸を擬装公用車により後にした。
白谷は現役陸軍大佐であった昭和5年、『昭和維新会』と呼ばれる陸軍軍人からなる急進勢力を作り上げ、純粋な軍事皇道国家建設を当時めざしていた。
同年、少将へ昇進し、元来カリスマ性が強いうえ、しだいに軍内部はおろか政府中枢まで影響力が増大していく白谷の動きを危険視していた軍首脳は、満州事変を機に『昭和維新会』の大半の者を大陸へ追い出し、白谷を予備少将へと据え置いた。
ただしこの事は、白谷にとって好都合であった。
もともと裏稼業にも長けていた(幕末まで博徒頭の家系であったという)白谷は、水面下で人脈と金脈を着々と構築し、軍需品商社「報国商会」会長の生田隆栄《いくた・りゅうえい》や後に神州救國会を結成する戸崎信三郎大尉らをこの頃抱き込んでいた。

そして東京から移動するもう一つの一団があった。
ただし移動というか移送である。
それは今次大戦以前から共産主義および無国家主義を唱え、捕縛されていた政治犯らで、囚人同士が腰縄で連結され、それぞれには手錠と麻袋を頭に被らされた状態で、貨物列車に乗せられ栃木県那須にある収容所へ押送さられた。
彼らの中には地下共産活動をしていた、“ヤスモリスキー” こと安森国和もいた。

11月3日早朝、第6軍は休む間もなく九州内陸に侵攻開始した。
戦車部隊と歩兵部隊が北と南から迫り、海上の宮崎港沖からは海軍艦艇によるロケット艦砲射撃を行った。
造山運動による起伏の激しい日本国土の地形は、大型の米国戦車には不利であったが、宮崎周辺は、米軍戦車部隊の前進には好都合な地形であり、容易に市内まで迫ることが可能であった。
市中央部を流れる大淀川の橋は既に日本軍により爆破されていたが、河口には舟艇隊も待機しており渡河に支障はなかった。
ちなみに南北に長い宮崎海岸うち、米軍が上陸した地点で宮崎市内に一番近い所は佐土原で僅か8キロほどである。
米軍としては日本軍の集結している宮崎を無視できない。
鹿児島川内と宮崎都農を結ぶライン “STライン” 以南を制圧することがオリンピック作戦の目標であり、その時点で日本政府は降服講和を申し入れると踏んでいた。
友軍の犠牲を最小限に抑える意味でも、本作戦は迅速に完了させることが望ましく、そのためにもSTライン内の拠点を占領しなくてはならない。
第6軍総司令官ウォルター・クルーガー中将は、宮崎と鹿児島それに海軍鹿野基地を攻略すれば南九州の日本軍は瓦解し、総崩れとなり、敗軍はいずれは霧島山地か国見山地へ逃げ込む。山岳掃討は南九州制圧完了後でも遅くはないと考えていた。

午前7時25分、新別府川北岸江田原地区まで前進していたイーサン・テュディック中佐率いる第1騎兵師団第3歩兵大隊(第8騎兵連隊)とボブ・ローランド中佐指揮の第11戦車大隊が先陣を切って市内に突入した。
新別府川の橋梁も大淀川同様全て破壊されていたが、工兵が仮設戦車橋を即座に架橋できるため、問題とはならなかった。
また空からは、機動部隊より飛び立った戦爆連合隊が攻撃に加わっていた。
そして、迎え撃つ帝国陸海軍が応戦をすべく米軍に対し攻撃を開始。
ここに宮崎攻防戦が始まった。
米軍入城を阻止せんとする、帝国陸軍第34混成戦車旅団の三式戦車約20輌が会戦を挑んだが、M4シャーマンの76.2mm砲の前にひれ伏せた。
さらに歩兵隊が、地雷や急造爆薬を抱いて米軍部隊へ突撃した。
たいていの者は機銃掃射などの餌食となってしまったのの、中には物陰から突進し、米軍の支援車両まで辿り着き、敵もろとも爆死する “強運” な兵隊もいた。
その光景を見た米兵たちは、フットボールに例え、「タッチダウン」と渾名し恐れた。

圧倒的物量で挑む米軍ではあったが、地上市街戦ともなると必ずしも順調にはいかない。
そもそも、米陸軍の軍事発想(武装面や用兵術から見ると)は、開けた広大な北米大陸の防衛及び欧州大陸での大規模野戦を想定して増長してきた。

先のドイツベルリン攻防戦などでは、突撃銃やサブマシンガン、パンツァファストで武装したドイツ軍のゲリラ戦術に翻弄された苦い経験を持つ。
言い換えれば “ゲリラ戦” は得意としていない。
一方帝国陸軍もまた、日清日露戦役以来、大陸での会戦を想定してつくられた軍隊ではあったが、こと戦場が本国とあってはそうもいかない。
少ない物量と人員をうまく使うにはゲリラ戦術しか無く、市内随所の物陰や坑道に分散配置し、隙を見て襲撃を行うよう方針が定められていた。
これは、國民義勇戦闘隊も同様だった。
攻防戦が始まってから直ぐ悲劇は起きた。
第34混成戦車旅団の攻撃が始まる前、宮崎神宮付近まで進出してきた米軍歩兵部隊に真っ先に迎っていったのはこの義勇隊の者たちで、竹槍や斧、棍棒などを持った老人や少年らが走り出ていった。
あっという間に米軍の放った弾雨に次々に倒れていった。
米兵の動揺はかなり大きく、誰もが正義の戦争であるという大義名分のみを脳裏に描き、老人子供を殺戮したという畏怖の念をしまい込んだ。

そして、弦二郞たちの守備する高松地区に敵が迫るのも時間の問題であった。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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 ―続く【日本本土決戦(8)】