昭和20年8月14日、長引く戦争により疲弊の極みに達していた日本——
広島長崎への原子爆弾投下とソ連参戦により、これ以上の国体維持が困難と判断した日本帝国政府は連合国に降伏する準備をしていた。
しかし降伏を潔しとしない一派 “神州救國会” がクーデターを起こし内閣を樹立、その新政権により戦争は継続されることとなった。
※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。
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■序 ―帝国包囲 昭和二十年九月
昭和19(1944)年7月7日、マリアナ諸島サイパン島に上陸した米軍と日本軍守備隊による攻防戦は、一般住民を含めた多大な犠牲をともない日本軍の玉砕と指揮官たちの自決により終結した。
二日後には、日本軍の組織的抵抗が止んだと判断した米軍はサイパン全島の占領を宣言。ついに日本本土への直接攻撃を可能とする足がかりを得た。
欧州でも連合国軍は、ノルマンディー上陸作戦が成功に終わり、同年7月9日にはフランス北西部の要衝カーンを陥落せしめ、続く「コブラ作戦」の発動準備に取りかかりフランスにおけるナチスドイツ軍の戦線崩壊は時間の問題となっていた。
約一年が経過した。
その間、帝国海軍連合艦隊はマリアナ沖およびレイテ沖両海戦で、温存していた空母大鵬、瑞鶴、戦艦武蔵など主力艦艇のほぼ全てを失って壊滅。一方、手中に収めたマリアナ諸島に前進基地を置いた米軍は、当地から日本本土へ長距離重爆撃機B-29を飛ばし焦土作戦を行い、同時にフィリピン、硫黄島《いおうとう》、沖縄へ進撃し日本本土を間近にし両軍は対峙した。
またナチスドイツが1945年5月に連合国に無条件降伏し、長かった欧州戦役はここに幕を閉じた。
そしてドイツ降伏3ヶ月後の8月6日、広島に原子爆弾が投下され同月9日には二発目が長崎に投下された。
満州では、長崎原爆投下の前日、ソビエトが日ソ中立条約を破棄、日本政府に対し宣戦を布告。翌9日に三方面のソ満国境を越えたソビエト軍は、狙撃(歩兵)師団を中心とした地上80個師団と戦車部隊を中心とした機械化旅団40個、飛行機師団32個の総勢174万の大兵力をもって瞬く間に満州全土へ展開した。
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日本政府は、これら事態を鑑み、ポツダム宣言受諾の方向で調整していたが8月14日、内閣が “神州救國会” を名乗る陸軍近衛師団を中心とした急進派によるクーデターにより倒れた。
彼等は、かつて昭和維新を掲げ、中央から遠ざけられていた白谷藤一郎《しろや・とういちろう》陸軍少将をかつぎ内閣総理大臣に擁立し、呼応した陸軍軍人や政治家、それに国粋主義者たちを加え政権を樹立した。
新政権は、ポツダム宣言の受け入れ断固拒否と連合国に対する徹底抗戦を表明。そして人事を一新した帝国軍統帥部は移動可能な兵力を日本内地へ集中すると同時に、不足分の兵員には少年から老人まで含めた根こそぎ動員により補い軍の再編成をすすめ、本土決戦計画 “決号作戦” を8月20日に発動させた。
9月1日、連合国軍統合本部は頑として戦争継続の姿勢を崩さない日本に対し、本土への侵攻計画、“ダウンフォール作戦” の始動を正式に決定し、沖縄とマリアナ諸島に兵力を集中させ始めた。
また、ソビエト軍は8月14日、満州国首都新京に対し空挺作戦を敢行し電光石火、即日制圧した。
満州国は、対ソ戦が始まると同時に検討した南部への遷都に失敗しており、皇帝溥儀はソビエト軍に逮捕され同時に満州国は自然瓦解した。
なおも烈火の勢いで8月末までに赤旗《せっき》軍団が遼東半島全土を抑え、各方面から進軍し再編成されたロディオン・マリノフスキー元帥率いるザバイカル軍は、9月3日にはついに鴨緑江を渡河、朝鮮半島を南進した。関東軍はいち早く満州放棄を決定し、「皇土」朝鮮の防衛に徹するために主力を朝鮮半島北部へ集結させていたが、迅速なソビエト軍は京城をはじめ朝鮮中部に空挺作戦を敢行、さらに主力部隊が仁川に上陸したため、南北から挟み撃ちにあい、苦戦に喘ぎ釜山近郊まで追い詰められた。
関東軍は各地で玉砕戦を繰り返すも、ついに9月15日組織低抵抗を停止した。同様に樺太全土と千島列島、択捉、国後、歯舞諸島にもなだれ込んだソビエト軍に日本軍守備隊は為す術がなく、占守島防衛隊など一部が奮戦するも8月20日までに北方守備軍は全滅した。
これをもってソビエト軍は満州、朝鮮、樺太、千島という日本の北東側全てを制圧したかたちとなり、北海道東岸へ威嚇砲撃を開始、日本本土上陸の構えを示していたが、スターリン書記長とトルーマン大統領との秘密協定により戦闘を停止した。
大陸支那戦線では、8月初め時点で支那派遣軍がなおも百数十万の兵力を誇っていたものの、英軍によるビルマ解放とタイの日泰攻守同盟破棄によって拓かれた物流ルートにより大量の戦略物資が米英軍から中華民国に渡り、活力を得た国共連合軍は一大攻勢に転じ、日本軍を次第に追い詰め、分散させられた部隊は大陸各地に封じ込まれた結果となり身動きができなくなっていた。
また、本土から武器弾薬、食糧の補給も途絶えていたため、戦うこともできず将兵たちは飢えに苦しみ、指揮伝達系統を完全に失っていた支那派遣軍は、辛うじて南京を死守していたものの既に戦力は無きに等しかった。
そして、満州朝鮮に残されていた数百万の民間邦人たちは、本土へ帰ることも不可能となっていたため、棄民と化し、行くあてもない行進を続け、その末路には地獄が待ち受けていた。
(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。
―続く―【日本本土決戦(2)】