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【艦船シリーズ】2 日本商船隊の戦い

江戸期、四面を海に鎖されていた我が国は、嘉永6(1852)年黒船来航により門戸が開かれ、その僅か90年後の昭和16(1941)年においては、商船保有数約610万総トンという実質的に英米についで第3位を誇る一流造船国家となり、太平洋戦争中も約338万総トン※もの商船を建造した。
しかしながら、昭和20年8月の戦争終結時には約134万総トン796隻(稼働可能船は約80万総トン)が残存していたに過ぎず、実に損失総数約814万トン、乗組員殉職戦死者数約4万数千人とも言われる膨大な生命財産の犠牲をだし壊滅した。

いずれも年次 漁船、官庁船、その他特殊船を除く日本国籍を有する100総トン以上の鋼船


(オロノ島近海で、B-25の攻撃を受ける貨物船)

壊滅に至る原因は一言では語ることが出来ない多数の要因があったわけだが、その一つに近代戦争における商船そのものの運用が他国と異なっていたことがあげられる。
第二次世界大戦では、世界各国で多くの商船隊が誕生、組織化され同時にかつてない規模の消耗戦が繰り広げられた。
そこで、広大な海原に戦域を持つ日米英の三カ国は、時同じくして『戦時標準設計船』(以下「戦標船」)と呼ばれる量産商船の建造を行った。
米英は、リバティー船と呼ばれる工業大国米国で建造された戦時輸送船を大量建造し、随伴護衛空母と共に船団を組ませ送り出し結果的に物量に対する優位性から枢軸国を圧倒した。

一方我が国は、「戦標船」という発想(必要性の認識)そのものは米英と同じながらも、「戦時設計」という概念そのものの欠如から、太平洋戦争初期に建造された輸送船は戦前からのそれとほぼ同じ設計で、工数の若干短縮と工作部品の少量化、自衛火器の搭載程度にとどまっており、ある意味 “ハイスペックな戦標船” であったと言えた(これは商船改装空母も同じで貨客船「出雲丸」から改装した空母「飛鷹」などは正規空母並みの艤装を施された)。
しかし、戦局が悪化し商船大量損失という現実を突き立てられ、ようやく “戦時急造” へとシフトし、工法の見直しなどで生産率は向上したものの、造船原材料の不足と長引く戦争による国内工業力の疲弊、さらには制海空権の切迫などで商船の消耗は悪化の一途を辿り、やがて終戦にいたった。


(ラバウル港内で空襲を受ける貨物船)

我が国初の戦標船は、後に「第一次戦時標準(設計)船」と呼ばれ、その発想は意外に早く第一次世界大戦時既にあったが、同大戦終結と共に立ち消えとなった。
その後、昭和12(1937)年の日中戦争勃発で、大陸移送用に大量の輸送船が必要と見込まれ、船舶改善協会(逓信省外郭団体)が戦標船の骨子を策定(と言うか提唱)しました。
そして昭和16年までに、長距離航行用貨物船をはじめ油槽船、鉱物運搬船など10種類の形式(下表)が定められ、順次建造されていった。

しかしながらこの第一次戦時標準船は、船型や構造、仕様などが統一化されただけで、無骨ながらも全体の船容は流麗で滑らかなフォルムを持ち(シア:舷弧のカーブなど)、見た目の美しさは保たれたままという平時の輸送船とあまり大差なく、建造工期もそれなりに時間がかかるため(6千総トン級A型貨物船で約8ヶ月)、量産性は無きに等しかった。

【前期戦標船 6千トンクラス一般貨物船の例】


日米開戦後、日本軍のミッドウェイ島攻略戦(昭和17年6月)失敗から始まる連合国軍の反撃は、中部太平洋ソロモン海域で激しさを増し、ことガダルカナル島をめぐる戦い(17年8月~翌2月)では、日本から送り込んだ輸送船のうち約20万総トンが損失したとされるほどの果てしない消耗戦となった(なお輸送船が不足し、高速な駆逐艦部隊による鼠輸送作戦も行った(米軍呼称:Tokyo Express))。



(ガダルカナル島に擱座後投棄された山月丸(上)と鬼怒川丸(下))

同様、帝国海軍のMO作戦とそれを断念させた珊瑚海海戦(17年5月)に始まり、同陸軍が陸路を強行してまで落とそうとした一連のポートモレスビー攻略戦において、 ニューギニア島北岸占領地に対する物資輸送作戦でも約14万総トンの商船が損失した。


(ニューギニア戦線で敵機から全力回避中の貨物船)

果てのない消耗戦が続く中、工数のかかる戦標船を簡略化すべく新たな策定が行われ、それまでの戦標船が民間企業(団体)も交えての建造だったものを海軍艦政本部直轄での策定が行われ、後世に名を残す恐るべき第二次戦時標準船(以下「二次船」)が生まれた。

昭和18年の7月から建造された二次船は、まず見た目からしてそれまでの曲線的なデザインを工作が容易な直線的に改められ、細部にわたるまで簡易構造となり(例えば居住性の度外視や船具の省略など)極めつけは、二重底の廃止という船の安全性までも二の次という徹底ぶりだった。
さらに量産性の優先から、高性能機関は搭載されず低馬力簡易構造の主機関が採用されたため、出力不足による低速航行を余儀なくされた。
造船技術としては、予め分けられた部品を個別に作っておいて、それらを一気に船体に貼り合わせていくブロック工法と電気溶接技術が採用され、6千トンクラスのA型貨物船(2A)の中には起工からわずか一カ月足らずで進水まで行ったものまで現れた(戦争中に建造された約338万総トンの商船の大半はこの二次船)。

【後期戦標船 6千トンクラス一般貨物船の例】


しかしながら粗製濫造の汚名は免れず、実際には海運業者に引き渡されたあと船主側で機関調整や船体補修を行わないとまともに航海できる代物ではなく、耐用年数も2年程度(実際には1年未満)だった。
当然ながら輸送業務は難航を極め、通常航行さえ怪しいうえ戦場という特殊環境下での二次船は、断末魔に喘ぐ大洋の笹舟に等しく、生還率の少ない “特攻商船” に外ならない。
艦政本部は強行して二次船の建造を推し進めたものの、最大の欠点であった低速航行に目をつぶるわけにはいかず、二次船の増速型(3~4ノットの高速化)として第三、四次戦時標準船を策定したが、僅かな建造数で終戦を迎えた。

終戦時には、冒頭で記した僅か約80万総トンしか稼働可能な商船は残されていなかったが、修理可能船を含め多くの戦標船が戦後に二重底への改良工事などを施されたのち(多くの船台は終戦時に無傷だったという)、昭和30年代まで稼働し続け、我が国の戦後復興へ多大な貢献を残した。
また、ブロック工法や電気溶接技術なども品質管理の向上と共に戦後飛躍的に進歩し、その技術そのものが造船の標準工程となって、やがて良質で生産性の高い造船技術へと繋がり、昭和40年次には保有商船数が1000万総トンを超え、戦標船の技術と教訓により日本は再び造船海運大国そして世界のトップへ躍り出るのだった。


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引用参考文献:
(1)『昭和船舶史』毎日新聞社、1980年5月25日発行
(2)『戦時標準船入門』大内 建二 光人社、2010年7月23日発行
(3)『輸送船入門』大内 建二 光人社、2003年11月13日発行
(4)『別冊歴史読本第68(266)号 太平洋戦争総決算』新人物往来社、1994年11月11日発行
(5)総務省統計局(http://www.stat.go.jp/)各種船舶統計

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  • 本記事中の写真は『昭和船舶史』から転載しています。