■5. 中央アジア横断鉄道
「弾丸列車計画」で描かれてた日本と中国大陸、欧州とを結ぶ鉄道網建設整備計画は、構想的に壮大な大陸横断鉄道を想像しがちだが、実際には大陸に新しい鉄道を敷設しようとしたわけではなく、あくまで東海道山陽本線の拡充策、東京と下関との間に高速新線(新幹線)を建設することが最大の目的であり、大陸との連絡手段の効率化(例えば対馬朝鮮海峡トンネルの建設)などは「弾丸列車計画」の一部であることに間違いないものの、実際には別物であるとも考えられる。
しかし「弾丸列車計画」を語る上で、「アジアを駆け抜ける高速鉄道」の開発が時系列でいうと前史にあたり、直接的ではないものの計画のルーツとして、ここで挙げる『中央アジア横断鉄道計画』なる壮大な構想論があった。1)
昭和13(1938)年、勃発から一年余り経つ日中全面戦争は、前年末の南京攻略から、その後の徐州会戦や武漢作戦等により帝国陸軍が中国主要都市を次々と手中に収めるも、対する北伐軍(国民革命軍)が大陸奥地へ移動し混迷の度が高まりつつあった。
一方日本国内では、一種の「大陸ブーム」に近い現象が起きており、東海林太郎の「上海の街角で」や桜井健二「長江舟歌」など大陸を舞台の歌が大流行し、また芝居や書物、漫画でも “大陸物” がもてはやされた時期だった。
さて、軍民挙げての “大陸進出” は鉄道界も例外ではなく、当時鉄道省鉄道監察官だった湯本昇が『中央アジア横断鉄道建設論』を発表した。
本論は、中国の包頭(パオトウ)からイラクのバグダッドまで7千4百キロ(予定走破時間10日)、かつて玄奘三蔵もしくはマルコ・ポーロが歩いたほぼ同じルートに鉄道路線を建設しようという夢のような妄想的構想であった。
構想に至る過程はとりあえず後にして、まずは “中央アジア横断鉄道” を使った日本と欧州とを結ぶルートを追ってみる。
(1)東京→北京→包頭
既設の鉄道(東海道山陽本線、朝鮮鉄道、華北・華中鉄道)と関釜連絡船を使用。当時優等列車が日本国内はもとより朝鮮鉄道(鮮満鉄道)でも走っていた。
ちなみに大正時代初期を例にとって時刻表を追ってみると。
新橋発8時30分の「特別急行列車(1レ)」は翌朝9時38分下関に到着し、ここで10時40分発の関釜連絡船に乗船できたという。そして釜山で20時50分発長春行き急行列車が待ち受け(連絡は毎日ではない)、翌早朝京城を発着、16時国境の鴨緑江を渡河し満州に入り21時53分(現地時間)奉天着。ここで大連発急行列車を併結し22時25分発車、そして翌朝4時50分に長春に着いた。所要時間は69時間20分。
《大陸を走る列車2:釜山発北京行き急行 “大陸号” 》
(2)包頭→トルファン→カシュガル
タクラマカン砂漠を東西に横断する鉄道路線を建設し、中国西端のカシュガルに至る。詳細なルートは不明ながらも、現在の「南疆線」のルート(同砂漠北縁)とほぼ同じと考えられる。ちなみに日本人としては大谷光瑞が探検隊を組織し明治時代末期から大正時代初めにかけ4次に渡りこの地を調査している。
(3)カシュガル→カブール
国境を越え、タジク・ソビエト(現タジキスタン)のパミール高原からヒンドゥークジ山脈を横断しアフガニスタンカブールに至る。現在でも鉄道路線はない。
(4)カブール→テヘラン
地形的にアフガニスタン中央部は避けると考えられる。恐らく北部トルクメン・ソビエト(現トルクメニスタン)国境沿いに建設されると推測。現在はイラン国内に鉄道網あり。
(5)テヘラン→バグダッド
ルートは未詳ながら最短コースのケルマーンシャー経由が考えられる。イラン革命以後、敵対していたイランイラク間の首都同士を直接結ぶ鉄道路線は現時点でもないが、実は建設計画は存在し進行中である。
(6)バグダッド→イスタンブル→ベルリン、パリ、ローマ
既設の鉄道網を使うとされた。バグダッドからモスルを経由しいったんシリアに入りトルコへ。アナトリア半島を縦貫しイスタンブルに至る。西欧州までは鉄道網が発達しており、オリエント急行に代表される優等列車も数多く運行されていた。
《大陸を走る列車3:満鉄 ダブサ型機関車》
ではこの『中央アジア横断鉄道』発想の原点を探ってみたい。
湯本は昭和5(1930)年から8年まで鉄道省ベルリン事務所長として渡独しており、その間欧州各地を見聞し、この構想を思い描いたと言う。2)
日本と欧州とを結ぶ交通手段は、長距離航空機が発達する以前、船舶と鉄道しかなく、一般的には約40日を要するスエズ運河経由の船便を使っていた。
陸路では1904(明治37)年に帝政ロシアの手により建設されたシベリア鉄道(ハバロフスク経由は1916年完成)が利用でき、約2週間で移動ができたものの、日露(ソ)関係は旧幕時代後期から火種の絶えない関係であり、同線の利用は常に不安定な状態だった。
さらに以後に起きた満州事変(昭和6年)と日中戦争(12年)、それに日独防共協定(11年)の締結など、日欧の速達性と安定度の高い交通路の開発やアジアでの迅速な軍事輸送路を確保することの必要性を湯本は考え、中央アジアを横断し最短で結ぶ鉄道建設の構想を描いたらしい。
そして各界の専門家や鉄道技師の意見も取り入れ、その目的として遠く離れた日独両国間の交通路確保、ソ連を牽制する防共鉄道としての役割(兵站輸送、戦術輸送)、中央アジアに潜在的に眠る石油や鉱物資源の取得調達など国益に即した現実的なものから、東西文化を結ぶ世界大道の復活(いわゆるシルクロード)や開拓鉄道、回教鉄道など大義名分的なものまで掲げた。
また建設には “支那との国境までは外国の勢力が取り入れられては困るがそれ以外であれば日本一国で建設する必要はない” と述べていて中国全土を掌中に入れたかの如くご都合主義的な部分もある。
なお、包頭バグダッド間の総事業費として約12億円(現在換算で約6960億円)が見積もられたが、明らかに少なすぎる額(戦前計画新幹線、東京~下関間の見積額が約5億円)で、 “大陸横断鉄道を今にでも造れる” ことを演出した意図が見え隠れする。
本論発表から4年後、その僅かな間に航空機による長距離旅客輸送技術が飛躍的に発達し、また大陸のみならず太平洋を主戦場としたアメリカとの戦争に突入。長期化した中国戦線では、膠着状態が続き「大陸を駆け抜ける鉄道の建設」など既に時代遅れとなっていまい、国家総力を挙げて建設する必要性も薄れた。
しかしながらこの時期、しきりに提唱された『大東亜共栄圏』と『中央アジア横断鉄道』が奇妙にリンクし、帝国鉄道協会 3) の賛同を得て調査会が作られるなど、『大東亜新秩序構築』という国策にマッチしたことで実現に向けた動きとは別にプロパガンダツールとしての役割へシフトした。
《大陸を走る列車4:満州の原野を走る帝国陸軍装甲列車》
実際のところ、中央アジアを横断する鉄道建設は当時(第二次世界大戦前)の日本の国際政治力や国家財政力、技術力などからいって実行することなど限りなく不可能に近く、さらに中国全土を勢力圏に治めることや、欧州列強の利害関係など歴史的に複雑に絡み合うイスラム圏で日本が主導権を握ることなどまず不可能であり、論文そのもが初めから机上の空論もしくは未来科学読本だったと言わざるを得ない。
(大東亜超特急―弾丸列車構想 完)
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1) 「弾丸列車計画」は、「東海道本線輸送量拡充」と「大陸進出における円滑輸送」が交差し合いできあがっていったとも言える。
2) イスタンブルを訪れたおり、回教文化にカルチャーショックを受けたようで、以後イスラム圏の研究に傾倒し “文化産業の興らざる最大の原因は交通機関の欠如である” との考えに至り、 “同圏に交通機関を普及させることで古の繁栄を蘇らせようとした” ということが『中央アジア横断鉄道』の原点であると自著にあるが本心かどうか定かではない。
3) 帝国鉄道協会:明治31(1898)年11月発足。官営鉄道や各民間鉄道事業所間の意見集約、技術知識・課題の共有などを目的とした業界団体。昭和22(1947)年社団法人日本交通協会へ改称し現在に至る。