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山河残りて草木深し―日本本土決戦(20)

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昭和21年1月、連合国軍は一面焼け野原と化している帝都になおも空爆を続けていた。同時に大空の魔龍B-36部隊は中央政府疎開先である信州にターゲットを定め攻撃の準備を進めていた。迎え撃つ日本軍は15センチ高射砲や高々度迎撃機をもって挑んではいたが、既に枯渇している資源と工業材料等で思いような成果を上げることができなかった。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■関東会戦 2 ―火神

神奈川県上空でB-36を2機撃墜した第312海軍航空隊所属の「火神隊」6機は、グライダー滑空により秦野に建設した秋水基地へ帰還した。
秋水は、機体軽量化と空力を得るため離陸の際タイヤを投棄してしまう。そのため着陸時は胴体に収納されたソリを引き出し代用するが、地面との摩擦により火花を散らす。その光景は隊の名称と重なり神鳥《しんちょう》の如く見えたという。

先陣を切って突撃し、第一撃でB-36を叩き堕とした第1火神隊隊長東埜篤志《とうの・あつし》少尉は、秋水の操縦席から滑走路に降り、夕刻の薄暗い丹沢山渓を眺めていた。
雪雲は所々切れ、その隙間から淡い西陽が差し込み山を照らし、基地近くを流れる用水路に山容が映る。
東埜の生まれ故郷は八ヶ岳連峰の麓、信州南佐久郡南牧村で、山と河、緑の森に囲まれた風光明媚な地で育った。
広大で急峻な南八ヶ岳は大変美しく、彼は幼少の頃、飽きることなく朝から晩まで峰を見続けていた時もあった。
今、国土は戦争により敵から攻撃を受けている。
東埜は、この美しい日本の山河を外敵により土足で汚されることが許せなかった。
そして彼自身が火神の走狗として美しい山河を守る事を改めて固く決意していた。

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秋水(J8M・キ200)は、日本軍が開発し実用化させた初のロケットモーター(エンジン)搭載の航空機である。
この牛のようにずんぐりして尾翼のない航空機は、日本軍の防空圏遙か上空、成層圏を航《ゆ》く敵爆撃機に対し、時速800kmという超高速で護衛戦闘機隊を振り切りつつ迫り、敵航路を飛び越えたあたりでモーターを停止させ反転後自由落下により滑空しながら30mm機関砲を敵機頭上に撃ち込み撃墜することが専門の極めて用途が限定された局地攻撃機であった。
原型機は先にも述べたが独空軍のメッサーシュミットMe163コメートで、運用法と戦術も同じであり、同盟国ながら譲渡に渋るナチスドイツ政府から苦心の末入手した資料を元に造ったことには変わりはないが完全なコピー機ではない。
昭和19年7月、機体の詳細設計図と技術資料を潜水艦によりドイツから日本へ輸送中、敵攻撃にあい、その大半を消失したため、肝心な機体詳細寸法を記したものを含めた全ての設計図が入手できず、別便で空路日本に運ばれた概要抜粋資料のみで建造しなくてはならなかった。
この資料は、大雑把なMe163の外形図のみで内部構造や装備品の配置位置、翼構造などは全く記されておらず、実質的にゼロからの開発スタートであった。
しかしながら悪化する戦局は、近い将来連合国軍が日本本土への直接攻撃を行うことを示唆しており、それを危惧する海軍空技廠はMe163の国産化にこだわり、早くも8月にはロケット機J8M/キ200プロジェクトがスタートする。
J8M/キ200は日本の航空史上初めてともいえる陸海軍共同計画としてスタートし、機体を海軍、ロケットモーター(特呂2号)を陸軍が担当することとなった。
無尾翼機という特殊翼型機ながら11月には何とか基本製図まで至ったが、オリジナルのヴァルターHKW-109/500A型エンジンの設計図が入手できなかったため、特呂2号の開発は難航を極めた。
ただ滑空実験機はエンジン開発中に完成し、空技廠のベテランテストパイロット犬塚豊彦大尉によりコントロールテストが繰り返され空力上の問題がないことが実証された。
昭和20年の年明けにはどうにかロケットモーターの燃焼テストを終えたが、全力運転を行うまでにはさらに半年を要し、奇跡としか言いようがないが6月に試作1号機をロールアウトした。

そして7月7日、エンジン搭載機として最初の試験飛行が追浜飛行場で先の犬塚大尉操縦により実施されることになった。
試作機色のオレンジ色で塗装された1号機は、犬塚大尉がゆっくりとイグニッションスイッチを入れ、ロケットモーターを点火し凄まじい轟音と薬品の匂いを漂わせながら型どおりに離陸を果たした。
しかし、高角での上昇飛行に移るや否や、突如エンジンが出力低下を起こし急停止、犬塚大尉が機体回復を試みたものの1号機はコントロール不能となり墜落。犬塚大尉は殉職した。原因は搭載した燃料が少ない状態での急上昇中に燃料切れを起こし機体バランスを崩れたためと結論された。
続く2号機による飛行試験は翌8月15日に予定されていたが、政変により9月7日に延期され、同じく追浜飛行場で空技廠に出向していた東埜少尉が操縦し、高度4千メートルまで上昇することに成功し、反転滑空後無事帰還した。
モーター燃焼時間は僅か54秒だったが、この1分に満たない時間内に4千メートルまで上昇したことは驚異に値し、決戦兵器としての可能性を大いに期待された。

実はこの試験飛行より前、6月の段階で早くも秋水の量産化が決定されていて、9月末時点で5機完成していた。生産はジェット局地戦闘機橘烈とともに、東京都八王子市高尾山中に建設されていた防空坑道内の三菱・中島合同疎開工場で最優先機として急ピッチで進められ、昭和20年末には36機ほど組み立てを終えていた。
他方、ロケット燃料の生産は、神奈川県高座郡相模原町に造られた陸軍のロケット燃料生成プラントで行われた。
特呂2号モーターの推進原理はメタノール57%、水化ヒドラジン30%、水13%からなる混合液に80%濃度の過酸化水素を酸化剤として反応させ推力を得る。これを乙液と甲液と称し(Me163はC液、T液と称した)さらに安定剤と反応促進剤として乙液に銅シアン化カリウム、甲液にオキシノリンとピロリン酸ソーダを加える。
これら化学物質は、いずれも溶解性が極めて高いものか強毒性を持ち、扱いが難しく、生産プラントでの事故が多発したが、1機1回の出撃で燃料を2.2トンをも消費するため、人手不足から中学生以上の勤労婦女子隊や忠臣労務隊と呼ばれる55歳以上65歳未満の者まで動員し不眠不休で生産を強行した。

昭和21年を迎え、何はともあれ36機の秋水とそれらを10数回出撃可能な分のロケット燃料を確保することができ、第312海軍航空隊へ24機(うち3機は実験用機材)、陸軍第10飛行師団へ12機配備が決まり、海軍では部隊名を「火神隊」(第1~3)、陸軍では「千種隊」と名付けた。
また運用施設も平行し建設された。
相模平野に、いずれも海軍航空隊だが4箇所の滑走路と燃料備蓄用施設、通信司令部(防空レーダーから得られた情報を受信する)、隊員待機所で構成される秋水出撃基地が仮設ながらも去る12月末には完成しており、陸軍も既設の東京都北多摩郡調布基地などに秋水部隊を展開することとしていた。
そして1月初旬まで敵空襲や偵察部隊が来ない時を狙い、なけなしの少ない燃料を使い数回のテスト飛行を行った。

飛行編隊は、2~3機で1小隊を作り、だいたい1つの出撃基地に3~4小隊配置し、織田信長の行った長篠合戦における鉄砲戦術ではないが、五月雨式に補給と攻撃をすることとでより効率的に運用できるよう工夫された。
システムとしては、既存の防空体制と大差なく、地上ウルツブルグ(防空レーダー)や有視界・集音監視所、監視船などで構成された防空網に捕捉された本土に侵攻する敵機のデータを防空作戦司令室が収集処理し、そこから会敵予想地区に位置する出撃基地へ指令伝達し小隊単位で逐次発進する方式だったが、会敵予想地区や時間の算出をいかに迅速かつ正確に行うかが勝敗の鍵となった。
しかし一番の問題は、多量に消費する燃料の確保と技術面としてのロケットで、特に不安定なロケット燃料の扱いに難儀した。少しでも反応パターンを誤ると出力が得られず離陸すらできない。点火と再点火を断続的に行えないというロケットの特性と燃焼時間が3分と極短く、多量の燃料を消費するため、レシプロエンジンのように予め調子を見ることもできず出撃は一発勝負を余儀なくされ、先の第一回の出撃時も3小隊が敵部隊に襲いかかる筈だったが、うち2機がモーター燃焼不良で1機が燃料漏れを起こし2小隊しか出撃できなかった。
また、防空司令部と出撃基地とのデータリンクもまだまだ円滑に行えず、出撃のタイミングを得ることの難しさが課題となっていた。

これら山積する課題を克服するためには、戦闘迎撃機の別働隊との連携を密にしなくてはならず、改めて厚木で討議することとなった。
1月下旬、東埜は討議に参加するため、第1火神隊隊長として厚木へ出張した。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(21)】