■4. 戦時下に進む新幹線工事、そして戦後
昭和15(1940)年9月、新幹線路線(弾丸列車)用に約100万坪が確保された。
戦時統制下ながらも、大陸進出を国策として掲げている政府は、その尖兵たる新幹線事業に、建設資材としての鋼材やセメントを優先的に配分させ、起工から完成まで時間のかかる長大トンネル「新丹那トンネル」と「日本坂トンネル」の掘削から建設着工が開始されることになった。
終戦後の「新幹線丹那」(のちの新丹那トンネル)トンネル熱海口
※写真転載:『別冊1億人の昭和史シリーズ・昭和鉄道史』毎日新聞社より
このうち「新丹那トンネル」は、昭和5年に起きた「北伊豆地震」の教訓から昭和15年10月に断層関係の詳細な調査が開始され、その結果を踏まえ工事の準備に着手した。
在来線「丹那トンネル」では、丹那断層帯を貫く難工事で激しい湧水 1) と崩落落盤事故によって多くの犠牲者を出しながら16年という長期間に渡る工事により貫通まで漕ぎつけた。
そのため、新トンネル工事では水抜用導水路を予め掘削し湧水対策を行い、地質関係では先の「丹那トンネル」により得られたデータがあるのでそれを元にすることができた。
さらに掘削技術に関しても、日本は高レベルなものに達していて不安要素はあまりなかったと言う。
そして昭和16年8月に「日本坂トンネル」とともに「新丹那トンネル」の工事が始まった。
しかしながら、日米開戦前夜のこの時期、「弾丸列車計画」に振り分けられた昭和16年度予算は1,418万7千円でうち7割が用地買収費用に回されたため、全体の工事費が120万円ほどしか残されていなかった。
翌17年には、戦争が一層の激しさを増していき、国内の鉄道は軍事輸送が最優先とされ10月6日に閣議決定した「戦時陸運非常体制」により旅客列車の運行は激減した。
このような情勢下で迎えた昭和18年、新丹那トンネルの工事は引き続き進められたものの 2) 、弾丸列車計画は、時局から “新幹線事業” は “既に時代に即しない事業” にほかならず、 8月に工事中止を鉄道省は決定するにいたった。
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昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦で第二次世界大戦は終結。
日本の鉄道網は、空襲により壊滅状態になったものの、それは停車場と運行車両に限られ、橋梁やトンネル、都市部の高架を含めた路線の被害は最低限に止められていた(戦争中も鉄道の全面運休はなかった)。
これは米軍の攻撃対象から鉄道が除外されていたためであり(当時の日本で “唯一整備されたインフラ” を米軍が占領後に利用を考慮したためとされる)、徹底的に破壊された船舶とは対照的と言える。
長距離列車や特急の運行も徐々に復活し、昭和24年には国営鉄道が独立採算事業体としての国鉄へ転換。同年9月は戦後初の特急「へいわ」(東京駅~大阪駅間、所要時間9時間。翌年1月に「つばめ」に改称)が誕生し翌年5月には特急「はと」(同じく東京駅~大阪駅間)も誕生した。
“もはや戦後ではない” と呼ばれた昭和31(1956)年、東京大阪間が全面電化が達成され「つばめ」「はと」が同区間を7時間30分で結び、一層のスピードアップが成し遂げられたものの、戦後復興と経済発展により東海道本線の輸送需要量は戦前からの懸念同様限界に達していました。
時代は鉄道から自動車、さらに航空機の発達により世界的衰退の一途を辿っていた事を十分に理解していた国鉄総裁十河《そごう》信二は、日本の国土にマッチし、社会のニーズに即した高速鉄道網を整備することにより、それらと対抗できると目算しており、実現には広軌の新線に『弾丸列車』を走らせるのが最良の手段と考えてた。
十河はかつて鉄道院総裁後藤新平のもと標準軌改軌を島安次郎とともに唱えた人物で、島と同じく満鉄に移り「あじあ号」の運行に直接携わっていたため、高速鉄道には広軌化が必至であることを身をもって知ってた。
そして旧海軍航空技術廠から松平精と三木忠直、国鉄を一度退社し民間企業の技術顧問をしていた島秀雄 3) らを国鉄技術陣に招き入れ、島が「東海道線増強調査会」会長に着任した。
なお調査会には、戦前から戦中にかけ三菱重工業で零戦の設計に従事した曾根嘉年や陸攻などの製作にあたっていた疋田《ひきだ》徹郎といった者たちも加わっており、ここに “新幹線” 建設に向けた布石ができあがった。
昭和31年5月には、銀座山葉ホールにて行われた「鉄道技術研究所創立五十周年記念講演会」で国鉄技術陣から、“表定速度150km、最高速度250kmの高速列車を走らすことは現代の技術で十分可能である” という高速鉄道研究の成果が発表された。
その後の計画は迅速に進んでいき、小田急の高速実験車両(スーパーエクスプレス号)を使った走行実験や十河のロビー活動を経て、昭和33年7月正式に「東海道新幹線」が運輸大臣永野護の承認を受け計画建設がスタートした。
路線は「弾丸列車」のルートを基本とし、そのため用地買収も20%近く済んでいた。また戦時中に「日本坂トンネル」は既に貫通し、「新丹那トンネル」も途中まで掘られていたなど好条件が揃っていたため、建設はスムーズに進行していった。
その間、島を中心に新幹線車両の研究と開発が進められ、昭和37(1962)年4月に試作車が完成、続いて量産化された。
白色に青線で配色され愛着溢れる丸みを帯びたユーモラスな車体は、戦後復興と経済躍進の日本の “顔” となっていき、昭和39(1964)年10月1日、新幹線東京発新大阪行き「ひかり1号」は、その姿が名前に相応しく一筋の光矢の如く、圧倒的速さで西へと駆け抜けていった——。
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1) 丹那トンネル工事では激しい湧水に見舞われ、そのため水抜坑による導水をした。その水量は10万トン/日という途方もない量だった。またトンネル上部に位置する丹那盆地(旧函南村)は、工事が原因と思われる水源渇水に見舞われた。
2) 他に、東山トンネル、大高―名古屋、京都駅、大阪駅、大阪―西宮、六甲トンネル、姫路―(寒河)―岡山、岡山駅、尾道―広島の区間が工事着工されることが同時期決定した。
3) 島秀雄:弾丸列車計画の実質的なリーダー島安次郎(終戦後の昭和21年死去)の長男であり、戦前は傑作貨物牽引機D51などに代表される多くの蒸気機関車の設計に携わり、彼自身も弾丸列車計画に参画していた。なお次男の隆もまた国鉄の鉄道技術者で0系、200系など新幹線車両の設計に携わった。