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山河残りて草木深し―日本本土決戦(30)

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昭和21年3月20日、ソ連軍は北海道へ大軍を投入し日本本土侵攻作戦 —ペトロヴィチ作戦— を本格的に発動させた。それはソビエトが自国の影響力を極東に広げようと画策したからに他ならず、同じ反ファシスト連合国であるアメリカはそんなソビエトの赤化侵略に大いなる危機感を抱き注視していた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■北の雷鳴 1 ―ペトロヴィチ作戦発動

世界的に共産主義者が跋扈《ばっこ》してきた今世紀、早くも国家として成熟期を迎えようとしていたソビエト社会主義共和国連邦は、同志としての社会・共産主義国家陣営を増やすためその裾野を広げつつあった。
手始めは1924年、それまで清朝末期に独立を果たしながらも北洋軍閥、ロシア反革命軍それぞれの勢力下に置かれていたモンゴルに政治軍事両面で介入し、ソビエトに次ぐ世界で二番目の社会主義国家としてモンゴル(蒙古)人民共和国建国を策謀。さらに対日宣戦布告直後に満州国と朝鮮へ電撃侵攻したことでそれら地域を「  “日本帝国” から人民を解放する」という大義名分をソビエトは得た。
「日帝駆逐」によりアジア社会主義の波動は一気に広がりを見せ、満州へは蒙古革命人民軍がソ連軍とともに進駐。朝鮮においては白頭山将軍なる異名を持つ抗日ゲリラリーダー(実際にはモスクワで赤化教育と軍事訓練を受けた朝鮮人エージェントに過ぎない)金成一が、1946年3月1日突如として半島全土の独立を宣言、朝鮮共産党総書記を名乗り暫定革命政府のもと “朝鮮社会主義人民共和国” を建国した。
もちろんソビエトとモンゴル以外の米英などは朝鮮共和国の国家承認を見送ったが、世界情勢の構造は明らかに “ファシスト陣営 vs 反ファシスト陣営” から “自由陣営 vs 社会主義陣営” へ変化しつつあった。実際、日本軍(支那派遣軍)に勝利し統一中国を模索する中華国共連合では、その主導権争いから中華民国国民政府主席・蒋介石と共産党中央革命軍事委員会主席・劉沢源の間で国共合作以前の対立関係が再び表面化し内戦勃発の気運が高まり、未だ連合国軍が分割占領している東部ドイツやプスタ・バルカン地域に位置する旧枢軸側国家群の共産化への動きはその現れと言えた。
このような急速に世界情勢が変化するなかで行われたソ連軍による北海道侵攻作戦「ペトロヴィチ作戦」は今後世界における新たなる火種となることは間違えなかった。

ソビエトは昨夏、日本政府と満州政府に国交断絶を通告し宣戦を布告。
国境付近に展開していた地上部隊80個師団を中心に機械化旅団40個、飛行機師団32個の総勢174万からなるロディオン・マリノフスキー元帥旗下ザバイカル軍が瞬く間に満州朝鮮へなだれ込み、同時に極東軍第16軍の1個師団4個旅団と第2極東方面軍カムチャツカ防衛部隊、海軍部隊が国後択捉など日本固有領を含めた千島列島全域と南樺太へ攻め込んだ。
突如としたソ連軍参戦は、長崎への二度目の原子爆弾攻撃と同国を仲介役に米国との停戦を模索していた日本政府および大本営にいっそうの混乱を与え、防衛策を講ずる間もなくソビエトと交戦状態に突入した。
現地日本軍は対抗措置として満州朝鮮を守備する関東軍第1(満州)、第3(満州)、第17(朝鮮)各方面軍(約100万)と樺太千島を守備する第5方面軍第88(樺太)、第89(南千島)、第91(北千島)各師団(約6万)それに満州国軍と内蒙軍(満蒙軍)を含め総勢約140万の大兵力でソ連軍に挑んだが、満蒙軍ははじめから戦意はなく本来は対ソ戦を想定し満州防衛がその主たる任であるはずの関東軍も主力部隊や主要装備を既に南方や内地防衛へ転出しているため、最新兵器で身を固めたソ連軍相手に追い詰められ約一ヶ月あまりの戦いの末、軍組織は瓦解した。
その一方、結果的にはソ連軍に敗北はしたが、南樺太と千島列島を守備する第5方面軍は、戦車第11連隊などの巧みな戦法により善戦し、ソ連軍を一時的に後退させ多大な損害を与えた。

その後ザバイカル軍は、勢いに乗じて北九州上陸も辞さない構えを見せたが朝鮮南端で戦闘をいったん停止、司令部は京城に留まり半島全土をソビエト軍政府下に置き極東における共産主義勢力の身固めを行った。
だがソビエトのアジアにおける南下戦略が本フェーズで終了したわけではなく、対日侵攻軍の準備は計画的に進められ新たに対独戦で勇戦した精鋭ウクライナ方面軍をシベリア鉄道を使い極東へ派兵し同軍を再編、総司令官アレクサンドル・タヴゲーネフ上級大将のもと総勢200万のウザプリモルスキー軍として占領南樺太と沿海州に展開させた。

千島全島と南樺太、北海道全域という直線距離1640kmの東西に長い守備範囲を持つのが帝国陸軍第5方面軍である。
その主力は、明治18年発足の屯田兵が日清戦争後に改組師団昇格した旭川第7師団で、日露戦争時には第3軍指揮下へ入り、203高地・旅順要塞攻略戦、奉天会戦などへ参加、その後もシベリア出兵やノモンハン事件、満州事変など大陸で事変が発生する度に投入されソ連軍や国民革命軍と交戦した。日米開戦後は第28連隊がガダルカナルで闘うなど第7師団は数多くの激戦をくぐり抜けてきた実戦部隊であった。
即応戦力であるという特性上、米軍による釧路・根室方面への上陸とソ連軍の南下に対抗するため、日本軍は第7師団の部隊大半を北海道内に温存させ敵侵攻に備えていた。
が、第5方面軍は、前年の樺太千島における戦闘で北海道以北領と3個師団を一挙に失い、本州との補給路である津軽海峡も完全封鎖され、さらに追い打ちをかけるような米軍による本土侵攻を受け、いわば “道内籠城状態” となっていた。
そのような状況下における動員兵力は、道東根釧地区を守る主力第7師団の他、北部を要塞のある宗谷方面を守備する第42師団、南が苫小牧方面守備の独立混成第101旅団(対米戦も想定していた機動師団)それに根室や室蘭に駐留する数個警備大隊、独立野戦部隊など総兵力併せて2万3000と機械化部隊として帯広付近に展開する平忠正少佐旗下戦車第22連隊(九七式中戦車など旧車が主体)の稼働47輌しか広い道内に残されておらず、それら微細な戦力で総勢200万、北海道侵攻作戦投入数でも80万を誇るウザプリモルスキー軍に対抗しなくてはならなかった。

 

3月20日に道北道東に上陸した赤軍旅団は陽動であった。
ソ連軍は宗谷・紋別それぞれに総数4600の第866狙撃旅団、釧路へ第531狙撃旅団約2000が上陸し、宗谷では帝国陸軍歩兵第129、第130、158連隊と紋別では歩兵第28連隊、釧路においては歩兵第27連隊とそれぞれ交戦状態となった。
初戦段階における帝国陸軍の応戦兵力は宗谷・紋別方面1万200、釧路方面3600程度確保できたが、米軍からの貸与と独軍鹵獲により得られた近代兵器と物量で勝るソ連軍は日本軍を圧倒した。だが陽動であるこれら先鋒隊は、積極的に前進する構えを見せず目下の日本軍防衛部隊との局地戦に徹した。
その頃、既に次なる攻撃目標地点沖には上陸軍を満載したソビエト海軍太平洋艦隊特任輸送艦隊が待機しており、翌21日早朝よりウザプリモルスキー軍北海道侵攻軍本隊 “クリル・マトマイ解放軍”(クリル・マトマイ=北海道のこと)が石狩湾と苫小牧へ逐次上陸を敢行した。
この二カ所はいわば北海道の「首根っこ」に該当し峠を除けば降雪期の積雪量も比較的少ない上、大部隊が迅速に札幌、旭川、室蘭など主要都市を制圧できる好位置の上陸適地であった。
北東部に次ぎ戦略的重要度が高い本地域は日本軍内でも早くから認識され研究はされていたが、対応する時間も割くべき兵力もなく現在に至っていた。
道内の戦力を北の宗谷と東の根釧地区へ集中せざるを得ない事情から、苫小牧には先にあげた約1万の混成師団が駐留していたものの石狩方面に至っては札幌近傍でありながら守備兵力は皆無に近く僅か警備2個大隊しか展開していなかった。

上陸を果たしたクリル・マトマイ解放軍は、独立混成101師団を撃破し各方面に分かれ、T-34戦車や独軍製Sd Kfz機動装甲車などによって構成された自動車部隊を用いた迅速なる移動展開から主要都市である札幌、旭川、室蘭、函館を僅か1週間で攻略占領した。
またその間に、第866、第531両旅団の後続隊が宗谷・オホーツク地区と根釧地区に次々と上陸し攻勢に転じたため、第7師団と第42師団は道央への友軍援護に向かうことも(もっとも、北見峠や塩狩峠、狩勝峠は積雪によって部隊移動は制限されている。ソ連軍はそれも計算していた)できず孤立化し、第7師団は辛うじて転進可能な十勝平野に後退し敵を迎え撃つべく画策したがソ連軍は追撃戦を試みなかった。
ソ連軍の北海道侵攻開始から10日後4月1日時点で、宗谷方面の第42師団は壊滅的打撃を被っていたが、帯広を含む十勝平野一帯は日本軍主力が抑え健在だった。しかしながらユジノサハリンスク(樺太豊原)に置かれたウザプリモルスキー軍司令部で指揮するタヴゲーネフ大将はクリル・マトマイの人民解放を宣言しソビエト連邦が北海道全域を保護下に置いたことを内外にアピールした。

 

これら北海道での一連の対ソ戦を本州における日本軍は支援することなく海峡南側から見ているだけであった。
いや、正確には「何もすることができなかった」の方が正しい言い方なのかもしれない。
交通路が戦略的に遮断されていただけではない。
その理由は、ソ連軍が北海道に上陸してから3日後、同軍が間髪入れず東北地方にも上陸を敢行しその応戦に追われることになったからである。
ソ連軍は3月23日、「ペトロヴィチ作戦」に次いで真の狙いである本州侵攻作戦「ワシリエビッチ作戦」を発動させた。
北海道を攻めた同じウザプリモルスキー軍が、東北地方八戸、能代、酒田それぞれへ上陸を果たし帝国陸軍第11方面軍と交戦、ソ連軍は北海道戦線同様、各地で日本軍を撃破しながら怒濤の勢いで秋田、山形、盛岡の攻略に向かった。

これら情報は、那須岳山麓で日本の政治犯収容施設襲撃の機会を伺うハンス・ブラウン軍曹たちカラス組ことSOC部隊にも平文無線(“公の情報” なのでこういう場合、暗号を用いる意味はなく通常の軍用周波数を用いて広範囲に多数の部隊へ通信伝達した)でもたらされ、ソ連の日本本土侵攻作戦介入が作戦へ大いなる支障をもたらす可能性を考慮し、隊長のウィリアム・スラッテリー大尉は鈴村幾太郎前総理の救出作戦を急ぐことにした。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(31)】