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山河残りて草木深し―日本本土決戦(31)

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昭和21年3月20日、ソ連軍は北海道へ大軍を投入し —ペトロヴィチ作戦— 日本本土侵攻作戦を発動させた。それはソビエトが自国の影響力を極東に拡げようと画策したからに他ならなかった。そしてアメリカは、ソ連軍の北日本侵攻を政治的配慮から追認したが、極東における赤化拡大に大いなる危機感を抱き今後の動きを注視していた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■北の雷鳴 2 ―赤軍電光石火

ソ連軍が敢行した北海道・東北地方への上陸侵攻は日本にとって、物質的肉体精神的に極めて屈辱的なものとなった。
赤軍兵士には、野蛮で非文明的な兵が多く、侵攻ルート上に位置する村落や都市で略奪と暴行が行われた。その行為をソ連軍指揮官たちは黙認していたので、将官兵卒問わず文字通り悪魔の軍団であり、日本軍と闘うことなど二の次で、対象となる村を見つけるや押し掛け、老人や婦女子、子供に至るまで虐殺や強姦し、血を吸い尽くすと村を焼き払った。
ただでさえ貧しいうえ、長引く大戦により疲弊の極めに達していた北日本の寒村の人々は、突如現れた北からの侵略軍に対し抵抗する力はなく、近くの山や隣村へ逃げることが精一杯であった。後のことだが、日本という国が南北二つに分割され東北地方一帯が社会主義陣営国家となった時代、解放軍であるソ連軍の略奪行為は封印され、話を表に出すことはタブー視された。例外的に後述する “野辺地事件” や南日本へ逃れた少数の人々から口伝えでソ連軍の蛮行が世に語られたに過ぎなかった。

安政元(1855)年、日魯通好条約を締結したエフィム・ワシリエビッチ・プチャーチンにちなみ名付けられたソ連軍による本州東北地方制圧作戦 “ワシリエビッチ作戦” の最終目標は、東北地方一帯の占領にあった。
そして早い段階で仙台あたりを首都に定め社会主義国家を建国し、朝鮮社会主義人民共和国、中国共産革命軍とともに、極東におけるコミューン拡大をソビエトは謀りたかった。むろん、極東で国境を接するアメリカに対抗するためである。

ウザプリモルスキー軍は、昭和21年3月23日、二日前の北海道における強襲侵攻作戦と同じく、予め沖合に展開済みの特任輸送艦隊から太平洋側の八戸下北半島基部と日本海側能代海岸および酒田庄内海岸へ地上5個師団(2軍団および赤旗軍)、機械化3個師団を逐次上陸させた。
また上空からは、米軍から貸与されたB-25部隊が大胆にも護衛戦闘機をつけずに(ソ連戦闘機は、領内基地からの出撃では航続距離が足りない)陣地や都市町村へ支援爆撃を行った。

帝国陸軍第11方面軍は、主戦力を太平洋岸である宮城仙台方面と青森三沢八戸方面へ集中させていたため、能代および酒田ではソ連軍は日本軍とほとんど交戦することなく付近の市町村を制圧した。
一方、太平洋岸、八戸北側に上陸慣行したソ連軍狙撃軍団と戦車師団は、本州北辺を守備する第50軍(第11方面軍序列)主力、第157および308師団と対峙した。
合計兵力2万4千余りを有する両師団は、連合国軍の本土侵攻を想定した本土決戦第三次兵備により昨年新編成された急造師団で、隷下7個連隊中5個連隊がソ連軍の東北侵攻時、下北半島沿岸へ展開していた。
その5個連隊とは、第337、338、339および458、459の各歩兵連隊で、すべてが敵連合国軍上陸に備えた沿岸防衛・水際迎撃部隊であり、この一年で最大限の兵備充実を図ってきた。
対するソ連軍は、準備が整っていない独ソ戦初期こそ革命期前後の古い装備で戦争へ突入せざるを得なかったが、スタハノフ式計画生産によって、その後僅か数年で軍備の近代化を達成し、今般の日本侵攻軍もSKS自動小銃など高性能自動火器やロケット兵器類を装備した地上軍と、今回初投入された先行量産型T-44戦車を含めた最新鋭車輌と接収した独軍製高性能自動車からなる併進戦車師団は、ソ連軍きっての近代化部隊となっていた。またウザプリモスキー軍は旧独軍相手に泥水を啜ってまで闘い勝利したウクライナ方面軍の生え抜き軍で、屈強さは米海兵隊と比べても遜色なかった。

下北半島基部に大挙押し寄せるソ連軍に対し、沿岸砲や長距離野戦砲を多く持たない第50軍は、第11方面軍の方針により上陸阻止戦を放棄し、敵と南部糠部《ぬかのぶ》地域の内陸部で闘う作戦を立て、先の第157および308師団含めた戦闘部隊や遊撃旅団を海岸線から離れた箇所に配置していた。また、日本海側にも同時上陸をされたことで、八戸三沢方面から歩兵第457連隊を青森弘前方面へ同460連隊を秋田方面へ急派させた。
第12方面軍は、第50軍以外に4個師団約5万を有しており、それらを米軍による仙台方面侵攻を想定し宮城地域へ集中配置させていた。
しかしながら、北部守備の歩兵第222師団、戦車第44連隊を岩手の機動打撃部隊とともに下北半島から南進してくるソ連軍を迎え撃つため、南部糠部まで北進させ、残る宮城防衛を担っている虎の子3個師団、歩兵第72、142、322師団は、庄内・秋田方面へ部隊大半を削がなくてはならず、結果的に集中させていた主戦力は広域に散らばり、10日後のソ連軍仙台侵攻時、対抗する余力はなかった。

したたかなソ連侵攻軍は、東北に展開している第11方面軍が北海道の第5方面軍より遙かに強力な戦闘部隊と規模を有していることを熟知しており、主力と正面からぶつかることを極力避けながら主要都市の攻略を行った。
近代兵器を持ち、100万規模での動員可能なウザプリモルスキー軍ではあったが、日本軍の守備していない町や村々を次々と襲撃し、めぼしい金品や食糧、さらには “人間” を略奪していった。
ソ連軍に襲われたある村では、116人の居住村民中、村内に居た87人が殺害され、うち33人の婦女子は誘拐され陵辱後に虐殺された。
この事件は戦後(それもスターリン没後数年経った後)になり帰郷した一人の従軍兵の告発によって公になった。
はじめはもみ消しを謀ろうとした軍首脳だったが、従軍兵の伯父に外交官経験者である政治局員某がいて、党本部への働きかけを行うと同時に話が海外に伝わり “野辺地事件 —野辺地の大虐殺” としてイギリスの新聞各紙が報じてしまったため、ソ連軍としても当該者を処罰しないわけにはいかなくなり、大戦から帰還し生存していた事件当時の部隊指揮官である大隊長および中隊長5名と下士官12名、兵卒7名を裁判にかけ、大隊長と中隊長全員、下士官4名を銃殺刑、残る8名に終身刑、7名に重労働および再教育3年の刑を下し決着を図った。

広大な東北で修羅場が一週間ほど繰り広げられ、4月1日時点で南部糠部地域と寒河江川沿いに展開していた日本軍主力は駆逐され、盛岡や山形など主要都市はソ連軍に占領された。
そして4月3日、第12方面軍主力師団が各戦線へ分散していた隙を突いた形で、仙台制圧のため赤軍本隊が名取川河口へ大挙上陸し、北都へなだれ込んだ。

このソビエト赤軍とともに仙台制圧に向かう一軍団があった。
それは日本赤旗(せっき)革命軍と呼ばれる市民軍で、10年ほど前にソ連に亡命していた地下共産活動家 “堀部彗山《ほりべ・すいざん》” に率いられ日本に上陸した。
大義名目は日本人民解放軍だが、その実態は今般のソ連軍日本本土侵攻とともに、ソビエトコミンテルンがある種の「演出」として日本へ送り込んだ政治的宣伝軍に過ぎない。
堀部は日本で活動していた頃、ギャング事件や破壊工作など非合法活動を指揮していたテロリストだが、同志の間では “日本のレーニン” と称され英雄視された人物であった。しかしその一方で、“理念や信念を持たない日和見主義で逃亡者” とも言われていた。
ただ、堀部と赤旗革命軍が後の日本史上に与えた影響は計り知れないものとなる。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(32)】