■2. 弾丸列車計画―始動
新幹線計画は、「鉄道幹線調査会」の他に「特別委員会」と呼ばれる11名のスペシャリストからなるチームによって内容が詰められ、委員長には日本の鉄道発展に大いに貢献してきた島安次郎が選ばれる。
島は鉄道技術者としてこれまで数多くの高速機関車の開発や技術革新に携わり、鉄道院総裁後藤新平の下、国有鉄道(戦後の事業体としての国鉄とはやや異なる)の輸送量増加を見込んだ広軌化計画に参画するも、狭軌を標準として採用した原敬内閣時に鉄道院を辞職しその後満州に渡って、南満州鉄道筆頭理事、社長代理などを歴任していた(言うならば “広軌派” の先鋒)。
特別委員会は昭和14(1939)年10月までに12回の会合を重ね、諸問題を抱えながらも新幹線建設に向け方向性をまとめ上げ、翌15年1月の『鉄道会議』で原案が完成し、同年7月の第七十五回帝国議会で上程された(注:弾丸列車構想の委員会や骨子策定などの経緯や経過、時系列に関して資料によって若干の差異がある)。
工事期間は、昭和15年から29年完成までの継続工事とされ、仕様の概要は以下のようなものとなった。
◇軌間
高速鉄道に不可欠要素として、軌幅は広軌と技術陣は考えていたが、陸軍が反対 1) 。しかしながら国内と大陸(さらには朝鮮満州を経てシベリア鉄道を経由しベルリンまで―荒唐無稽ではあるが)を連絡可能とするためにも広軌1.435mは必須とされ狭軌は不適と結論が下された。
◇電化問題、牽引機開発
当初新幹線の電化路線は必須とされた。時速200キロを実現させるためには電気機関車での牽引が現実的であり、委員会技術陣も電化を前提に検討を進めた。しかし、敵国からの空襲による電化施設破壊を恐れた陸軍の反対にあい、彼らの顔を立てる意味でも基本蒸気機関車牽引式とし、トンネル走行時のみ排煙問題から電気機関車で牽引することが決定した。
そして機関車は新たに
- 旅客用蒸気機関車:HD53、HC51
- 貨物用蒸気機関車:HD60
- 旅客用電気機関車:HEH50、HEF50
- 貨物用電気機関車:HEF10
を開発することを計画した。
中でも電気機関車HEH50の最高速度は時速200キロを目標とした。また蒸気機関車HD53は満鉄『あじあ号』(最高速度130キロ 表定速度82.5キロ)を牽引するパシナ型機関車をモデルとた。
◇ルート、始発駅問題
ルートは現状の東海道本線と山陽本線に併設した形での新幹線とし、停車駅を、東京、横浜、小田原、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関の18駅とした(諸説有り、この中から横浜、小田原、沼津、豊橋、姫路、尾道、徳山、小郡を除いた資料もある)。
始発駅は市ヶ谷、四谷、中野、高円寺、高井戸、新宿、目黒、渋谷、高田馬場など 2) (諸説有り、左は主な資料に書かれていた駅を羅列させた)が候補とされたものの結局は東京駅始発と決定された。
そして大陸への連絡は当面、下関から関釜連絡線を用い朝鮮釜山へ渡ることとしたが、将来的には対馬・朝鮮海峡に海底トンネル(もしくは橋梁)を建設することに決定した。
ではこの対馬・朝鮮海峡海底トンネルとはいったいどのようなものだったのか?
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1) 陸軍が広軌に反対した理由として、明治以後日本国中に張り巡らされた鉄道網は既に狭軌を採用しており、改軌による多額の建設費を捻出するより、狭軌のまま今以上に路線を拡充普及させたほうが得策と考えたためである。もちろん軍事輸送を国内で自由展開させる都合からであることは言うまでもない。しかしながら大陸進出を推し進める軍部は、既に広軌により張り巡らされている大陸鉄道網と円滑に連絡をするためには改軌もやむなしと方針転換せざるを得なかった。また一説では鉄道省大井町工場でおこなった改軌デモンストレーションを見た軍首脳達が、その工事の速さ(あくまで実験だが15秒で軌幅変更できた)を見たためとも言われる。
2) 先に起きた関東大震災や空襲による損壊を鑑み郊外始発駅案を模索した。