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山河残りて草木深し―日本本土決戦(17)

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昭和20年4月7日、帝国海軍が威信をかけ建造した戦艦大和が坊ノ岬沖東支那海において敵航空攻撃により沈んだ。それから8か月あまり過ぎた12月13日未明、その海域にほど近い種子島沖を東に進む米戦艦ミズーリがまるで大和に足を引かれるように異国の海に没しようとしていた。

※実際の歴史時系列と異なり、架空の人物、固有名詞も登場します。

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■戦艦ミズーリ轟沈

12月12日午後11時。
戦艦ミズーリと随伴駆逐艦3隻は、連合国軍勢力下南九州海域を離れようとしていた。
艦隊は日没までは、航路上を友軍が安全圏として抑えてはいたものの、日本軍の長距離機による航空特攻を警戒していたが、夜になってからは体制を緩めていた。
夜間も、有人魚雷などによる雷撃の恐れはあったが、去る10月26日における大規模な特攻作戦以後、連合国軍艦艇は攻撃を受けておらず、戦力が温存されている可能性のある瀬戸内海から外洋に通じる水道のすべてを封鎖済みと確信していた米海軍は、もはやその懸念はないと思っていた。

ミズーリ艦長、ロバート・アレイ大佐はブリッジから黒い海原を見つめていた。
アレイ大佐は日米開戦以来休む間もなく闘ってきた。
42年夏、サボ島沖で重巡アナーバー艦長として初めて帝国海軍と砲火を交えた。
その時は夜戦で、敵水雷部隊が放つ無手勝《むてかつ》的なランダムで予測不能な雷撃を目のあたりにし、敵の底知れぬ力に恐怖を感じた。
旗艦を含めた味方任務艦隊の艦艇が次々に撃沈されていくなか、アナーバーは辛うじて沈没を逃れ、朝となり残存駆逐艦と共に漂流者の救助にあたった後、損傷した機関のまま命からがらシドニーへたどり着いた。
その後は同じソロモン海域で数次に渡り帝国海軍と死闘を続け、ついには南太平洋の覇権を連合国軍が得ることに多大な貢献をし、フィリピン奪取作戦より重巡から戦艦の艦長となっていた。

 

戦艦ミズーリは、1930年代後半、大日本帝国海軍が近いうちに建造すると推測される18インチ主砲を据えた排水量5万トン級戦艦に対抗すべく計画・建造されたアイオワ級戦艦の3番艦で、16インチ主砲(Mk.7)9門と無数の対空砲を装備した巨艦だった。
また高速航行を実現させるため、予測される敵新造戦艦より排水量が少ない4万5千トンとし、高温高圧蒸気型缶と21万2千馬力という高出力機関を搭載したことで30ノット強の高速航行が可能となった。また交互に缶と機関を配置し、被弾時の機関部損傷を極力抑える冗長手段のシフト配置を採用した。
しかし、パナマ運河通過も考慮したため、前述スペックを満たす都合上、全長は270mを超える縦長船体となった。
そして太平洋を挟み日米戦争が勃発した。

1939(昭和14)年、欧州における独軍ポーランド侵攻を皮切りに、既に6年以上経過した今次大戦は兵器の飛躍的発達によってこれまでの戦争体系を覆した。
陸上戦においては、有史以来、攻守要塞戦や白兵突撃が会戦の優越を決していたが、前大戦より出現した戦車や航空機、化学兵器の戦線投入により塹壕戦と持久戦を余儀なくされ、その塹壕戦はサブマシンガンやショットガンなど近接兵器の発展を、持久戦は長射撃砲の開発や航空爆撃技術の確立など更なる兵器のハイテクノロジー化を生んだ。
海上戦においても同様で、これまでの砲撃と雷撃による艦隊戦は陸上戦と同じく航空機の登場により、戦艦対戦艦、国家近傍などの戦略海域における主力艦隊同士のぶつかり合い ――いわゆる “大艦巨砲主義” はもはや発生する可能性や必要性が薄れ、事実、前世紀の遺物と化した帝国海軍の大和級超大型戦艦は竣役した2艦とも46cm主砲の威力を発揮することなく戦没した。

実は戦前までの米海軍は帝国海軍同様 “大艦巨砲主義” が半ば常識化しており、その結果がアイオワだった。
超大型戦艦アイオワ型は竣役艦が4隻ある。
艦籍順に、ネームシップ「アイオワ」、「ニュージャージー」、「ミズーリ」、「ウィスコンシン」で、さらに2隻「BB65」、「BB66」が建造中だった。
ただ、さすがの海軍当局も建造と運用に莫大な経費がかかり、用兵も見出せない戦艦の新規建造には消極的となっており「BB65」と「BB66」は造船工事を中断している。
しかしながら、ただ保有し軍港に係留させているだけでは本当の意味で無意味なので、米海軍はこれらを戦力として前線に投入していた。
一つは戦艦の持つ内部容量と強力な電子兵装を林立させられる大型艦ならではのメリットを活かし、将旗を揚げ、艦隊旗艦とした。
これは、なんだかんだ言っても、たいていの提督は戦艦に愛着を持っており、それが最新鋭の世界最強艦ともなれば格別だし、兵士たちの高揚感も上がる。
また、敵攻撃の可能性が少ない海域であればそこに進出し、敵領近傍ともなれば最大射程3万8千mを誇る16インチ主砲による艦砲射撃が有効となる。

このようないきさつから、ミズーリは第3艦隊旗艦として沖縄作戦に参加、終了後はその足で45年7月日本本土近海まで進出し沿岸から軍需工場や主要都市に艦砲射撃を行った。
特に夜間における都市への攻撃は、心理的効果を含めて極めて有効であった。
主砲のMk.7 16インチ砲の場合、初速762 m/秒、マッハ換算で約2.4で砲口を飛びし、2万2千メートルの最大射程を誇る。
大砲の砲弾は、目標到達まで空気抵抗や地球の自転による影響(コリオリ力―転向力とも)で着弾直前の速度は遅くなるものの、投下弾、ロケット弾と異なり基本的には撃ち落とすことは不可能である。
さらに戦艦の主砲は長射程であるため、着弾地点の予測が難しく、ひとたび射撃が開始されると、攻撃を受ける側は防御態勢を築きにくい。
ある意味、空爆よりも攻撃効果は高いともいえた。

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南九州からハワイへ向うミズーリの周囲には随伴艦としてギアリング級駆逐艦3隻が護衛している。
艦隊護衛艦はその主任務として、敵潜水艦を警戒しなくてはならず、ただ単に対象艦と同一航路上を等速航行しているわけではない。
連合国海軍の場合、戦術によりパターン違いはあるが、代表的な方式としては対象艦の前方左右へ展開配置し、一定周囲を楕円を描き警備する。さらに必要に応じて後方に護衛空母を配置し昼間は哨戒機を上げ警戒を怠らない。
むろん中心を航行する主要艦もジグザク運動で航行し雷撃に備える。
これは大西洋において、敵Uボートの攻撃により散々な目にあってきた経緯から生じたもっとも効果的な警戒方法だった。

しかしながらアレイ大佐は、帝国海軍を甘く見ていたのかもしれない。
45年7月以降、敵の主立った戦闘艦との遭遇例は皆無で、海軍情報部から入ってくる敵戦力分析も、「航行・稼働可能戦艦0、空母0、巡洋艦2、以下少数の駆逐艦・護衛艦・輸送潜水艦。またそれらも燃料不足により抜錨不可能に近い」とあり、主に警戒しなくてはならないのは航空機による特攻攻撃のみと判断していた。
この時点で連合国軍情報部は帝国海軍が、友軍ガトー級の2倍以上、水中約20ノットという桁外れの高速航行可能な攻撃潜水艦 “イ201潜型” を建造していたことを全く掴んでいなかった。

これはある意味アレイ大佐にとって不運だったのかもしれない。
海の獅子イ201潜型は、そのスペックから噛みつかれたら、たいていの米海軍艦艇はよほどの運が良いか完全な防備体制を敷いていなければ逃げることは不可能であった。

 

そして刻がきた。

13日午前2時、帝国海軍建武艦隊全艦は敵艦を完全に捕捉していた。
Y77雷撃戦の陣形を描く。

Y77陣形は、建武七号作戦のために予め設定しておいた空母を伴わない対大型艦用攻撃コードで敵戦艦右舷に対し、3艦同時に集中攻撃を加えるというプログラムだ。
もちろん敵は、電子兵装の完備と護衛艦を伴っているはずで、射程内艦隊懐に入ったとしても離脱可能なイ201型高速潜水艦であれば勝算は高い。

より具体的に説明すると、潜望鏡深度で攻撃態勢をとる左イ201潜、中央イ58潜、右イ203潜がそれぞれ目測により等間隔で水平配列し、敵艦進行方向二時より艦隊懐へ距離4千メートルから接敵。
敵護衛艦の航路を予め予測し、反撃爆雷攻撃に備えつつ、まずは旗艦で戦速の遅い中央1番艦イ58潜が距離2千メートルから魚雷を放つ。
そして点火を合図に左右構えの2番艦イ201潜と3番艦イ203潜がそれぞれ高速で敵艦に肉薄、約1200メートル以内に入ったところで両艦は魚雷を連続発射し、直後高速離脱する。
この時、イ204潜は敵艦進行方向6千メートルより観測と敵駆逐艦への警戒を行う。
といった作戦だ。

もちろん言葉では簡単だが、無線封鎖した状態で潜望鏡の目視によってのみ得られる情報だけで形通りの攻撃は不可能に近いが、黒い洋《うみ》を転戦してきた歴戦の潜水艦乗りたちはやってのける自信があった。

 

2時36分、都井岬南東沖約70km海域。
イ58潜橋本艦長は、敵艦との距離をゆっくり縮めた。
他の3艦に比べ遙かに速力の遅いイ58潜は、敵駆逐艦に捕まったら一溜まりもないが、経験豊富の橋本中佐は敵艦隊が明らかに戦闘態勢をしていないことに気がついていた。

「艦長、アメさんまたしてもジグザク運動していませんね」

と航海長山本少佐が言った。
“また” とは去る7月30日、パラオ北方520キロ沖で撃沈した重巡インディアナポリスのことである。

潜航速度3.5ノットで目標に近づく。

作戦時計と夜間潜望鏡を交互に見ながら司令塔員が叫ぶ。

「距離、2200!」

橋本艦長は命令を下した。

「方位角右45度、距離2000に調定。魚雷戦用意っ!」

「ヨーソロー! 方位角右45度、調定距離2000!」

雷撃手が震える手と声を抑えながら復唱した。

照明を消した暗い艦内に緊張が走る。

「距離、2000!」

そして3秒後。

橋本艦長は右手を挙げ命令する。

「よーい…」

「撃てっ!」

雷撃手が電気スイッチを入れ、艦内にブザーが響いた。

ドーーーーーッ!

振動ともに魚雷が発射された。

そして2秒間隔で6基の発射管から6本の魚雷が放たれていった。

「雷数6本、全て異常なし!」

発射管室から伝声管通じて司令塔に報告が伝わった。

ちなみに雷撃は、魚雷を直線で放っていくのではなく、確実に仕留めるため扇状に放ちストライクゾーンを広く見積もる。
とうぜんながら全雷ターゲットに当たることはまずあり得ないわけだが、命中率は上がる。

そして、しばしの沈黙の後、魚雷命中の衝撃波が艦に伝わった。

「敵艦に命中!」

艦内がどよめいた。

そして、それを合図にイ201、203潜が高速で艦隊の懐に飛び込みそれぞれ魚雷を放つ。

「2番艦発射と思われる二本、敵艦右舷に命中確認!間違いありません。アイオワ級戦艦です!」

「敵戦艦炎上中、右に傾斜!」

「続いて、推定3番艦発射の一本、右舷後部命中!」

司令塔員が震えながら報告を続ける。

それまで黙って聞いていた橋本艦長がひとこと発した。

「よし、撃沈確実だ…」

時刻は午前3時。
傾斜し炎上するミズーリ艦上では、パニックとなっていた。
雷撃を受け僅か10分の出来事だった。
そして3時12分、注水実行により回復を試みるものの、船体後方内部で雷撃による誘爆から爆発を起こし沈没確実となった。
艦長ロバート・アレイ大佐は総員退去を発令。2隻の駆逐艦を乗組員の救助にあたらせ、自分はブリッジ要員の最後に短艇に移乗し艦から離れた。
退去脱出とその後の救助体制はアレイ大佐の指揮で手際よく行われ、大型艦沈没の割には死者は数十名に留まった。

最初の魚雷命中から32分後、ミズーリは海に没した。
戦後、ハワイで開かれた査問委員会で、アレイ艦長は敵による航空特攻は警戒していたののの、潜水艦からの雷撃は全く予期もしていなかったと証言し、この間の記憶自体曖昧だったとも述べた。

 

建武艦隊は、直ちに戦域からの脱出をはかった。
イ201、203潜は攻撃直後に離脱を開始したが、不幸にもイ203潜はかねてから不調気味の2次電池トラブルから出力不足となり、自慢の高速航行ができなくなってしまい、潜水艦狩りを行っていた駆逐艦に捕捉され、頭上に爆雷雨を浴びせられた後、力尽きて逃げ切れず爆沈してしまった。
その味方艦に助けられる形で、低速力の旗艦イ58潜は脱出に成功、観測艦イ204潜も移動を開始し、3艦は南南西へ進路を取り戦域を離脱した。

 

時間が経ち、イ58潜は蓄電のため浮上した。
付近には敵《ストレンジャー》は電探でも目視でもまったく見当たらず、波浪もない。まるで異世界にでも浮上したかのようだった。
陽はまだ昇っていないが、黒い洋は次第に輝きを増していた。

「武蔵よ大和よ仇はとったぞ。そして散っていった多くの特攻隊員の英霊たちよ…」

高揚感の上がる艦内で、橋本艦長はひっそりと囁いていた。

そしてこの戦艦撃沈が今次大戦における帝国海軍最後の戦果となり、後年語り継がれることとなった。

(注意)
※IF ワールド シミュレーション戦記です。
※一部の人名、固有名詞は架空のものです。

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―続く― 【日本本土決戦(18)】